小池真理子さん「ただの不倫小説ではない」アニー・エルノー作品の魅力って?
──2022年、ノーベル文学賞を受賞したフランス人作家アニー・エルノー。離婚後の恋愛を描く代表作『シンプルな情熱』には、自身の経験が色濃く反映され、ベストセラーとして各国で翻訳されています。今なぜアニー・エルノーが読まれるのか? 私小説、オートフィクションとは何か? 作家にお話を伺いました。
こちらの記事も読まれています
▶鈴木六夏さん再婚当時を語る「家族の絆作りを焦った時期もありました」
世界中の女性たちはなぜ今、
アニー・エルノーを読むのか
Profile
©花井智子
小池真理子さん
1952年東京都生まれ。「妻の女友達」で日本推理作家協会賞受賞。以後、『恋』で直木賞、『欲望』で島清恋愛文学賞、『虹の彼方』で柴田錬三郎賞、『無花果の森』で芸術選奨文部科学大臣賞、『沈黙のひと』で吉川英治文学賞受賞。『無伴奏』『神よ憐れみたまえ』『月夜の森の梟』ほか著書多数。最新刊は『日暮れのあと』(文藝春秋)。エルノーとの対談は『秘密 小池真理子対談集』(講談社文庫)に収録。
❝「ただの不倫小説」ではない。
国境を超え、女性たちの
心をつかんで離さない❞
小池真理子さん
離婚後、妻子持ちの男に恋をした主人公が、パリのアパルトマンで彼を待ち続ける。ただそれだけのことでもたらされる喜びと苦しみ、嫉妬の数々を、作家が全神経を注いで書いた作品です。不倫の物語ですし、女性誌に載っている読者の手記の類いと同じではないかと思う人も多いでしょう。でも、まったく別物です。タイトル通りのシンプルで率直な心もようが、考え抜かれ、無駄を排した文章で書かれている。男性を待つ「私」はエルノー自身だと思われますが、自分の中を通りすぎていったあらゆる想いを克明に、まるで記録するかのように綴っています。
ベストセラーになり各国で翻訳された作品ですが、世界のどの言語に訳されたとしても、国境を超えて女性たちの心をつかんで離さないでしょう。不倫であろうがなかろうが、一人の男性に恋をし、取り憑かれてしまうと、女性は時にこうなってしまうものです。現実に則したことが文学的に、わかりやすく正直に綴られている。私もあちこちにアンダーラインを引きながら読みました。女性の多くが、この作品に魅了され、溺れてしまうことは間違いありません。
私が見た、恋する作家の素顔
私が直木賞を受賞した作品の出版元が、偶然にもエルノーの邦訳を出していたのが縁で、ʼ90年代にエルノー作品と出会いました。2004年、彼女が来日した時は、女性誌から対談の依頼があり、喜んで受けました。クールビューティという言葉がぴったりの素敵な女性でした。彼女はすでに結婚、育児、離婚など人生の中の多くのイベントを通りすぎてきていましたが、作家としてずっと順風満帆だったというわけではなかった。そのせいかものすごく精神が強靭な人だという印象も受けました。
対談が終わった後、ドアにノックの音がして、あきらかに年下と思われる男性が入ってきたんです。エルノーの当時の恋人でした。22歳年下だと聞いて、私を含め、居合わせた人はどよめきました。当時のエルノーは60代前半。「すごい年の差ですね」と言ったら、「日本ではみんなに驚かれるのだけど、なぜ?」「40歳で女性の人生が終わるわけではないでしょう?」ときょとんとしていたことも印象に残っています。
「情熱」は「受難」でもある
「passion」は一般的に「情熱的な」と訳されますが、バッハの「マタイ受難曲」の原題が「Matthäus-Passion」であるように「受難」という意味もあるのです。あまりにも幸せで情熱的な日々は、同時に受難でもあります。『シンプルな情熱』はまさにその、受難の物語でもある。作者は主人公自身ともいえますが、終始、テーマに対して非常に冷静な距離感を保ち続けている。その独特の作風に引き込まれて、エルノーの他の作品も読むようになりました。
どれも甘ったるさのない、感情に流されない、無駄を排した文体が清々しい。同時に、誰もが理解できるストレートな表現の連続です。性愛も含めて、自らの恋の顚末を小説にする、というのは相当の覚悟がいること。フランス本国でも「こんなの文学じゃない」という批判が数多くあったと聞いています。近しい人なら、小説に登場する相手の男性が誰なのか見当がついたでしょう。でも、そんな背景は些細なことだと思わせてしまうほどの力がある小説です。小説はほとんど読まない、文学など理解できない、と敬遠する人も、最初のページから目が離せなくなると思います。
愛する人を失うということ
エルノーと私の作風はまったく違いますが、これほど率直に、シンプルに小説を書いてみたい、と思うことがよくあります。どれほど物語を作り上げて虚構の世界を書いたつもりになっていても、その作品の中に作者自身が見え隠れしてしまうものですが、私はまだ、エルノーのように自分自身をまるごと小説化する勇気がない。とはいえ、『シンプルな情熱』も『嫉妬』(ハヤカワ文庫『嫉妬/事件』に所収)も、書かれているのは作者の「喪失体験」そのもの。「愛する大切な人を失った」時、人がとる行動、胸に荒れくるう嵐のような感情が冷静に描かれています。
私は同業の夫(小説家の藤田宜永氏)を亡くした後、新聞連載で死別後の想いを『月夜の森の梟』というエッセイに書きました。今になって考えてみるとエルノーに影響を受けていたのかもしれないと感じます。夫に先立たれ、パニック状態のまま書き出したのですが、「寂しい、悲しい」という感情を書き連ねるのはやめよう、と決めていました。そんなことをしても、絶対に読者の心には響かないからです。ただの手記や嘆き節にしかならない。エルノーは、相手と死別したわけではありませんが、愛する男に去っていかれることで深い喪失感を味わいます。
私も、37年間一緒にいた相棒を失った経験をどう言語化すればいいのかと考えた時、無意識のうちにエルノー作品が浮かんだのかもしれません。「恋愛」は現代においてすら、自由なようでいて、決して自由ではない。時代の価値観、倫理観みたいなものをどうしても引きずってしまいます。それでも突き進んでしまうだけのパッションが生まれてくるのが恋愛です。そこで経験した、どうしようもない不条理の数々を言葉に変えた作品が『シンプルな情熱』。時代を超えて、あらゆる世代の女性に読み継がれていくだろうと思います。
VERY的 課題図書
『シンプルな情熱』
『シンプルな情熱』
(著・アニー・エルノー/訳・堀 茂樹)
「昨年の九月以降わたしは、ある男性を待つこと──彼が電話をかけてくるのを、そして家へ訪ねてくるのを待つこと以外何ひとつしなくなった」……。離婚後、パリに暮らす女性教師が、妻子ある東欧の外交官と不倫の関係に。彼だけのことを思い、逢えばどこでも熱く抱擁する。自分自身の体験を赤裸々に語り、大反響を呼んだ、衝撃の問題作。2021年に同名映画化。
Francesca Mantovani ⒸGallimard
アニー・エルノーさん
1940年、フランス、ノルマンディー地方生まれ。1974年、作家デビュー。自らの体験を反映した自伝的作品(オートフィクション)の書き手で、ジェンダーや階級などの格差を経験した自身の人生を、多くの自伝小説の題材にした。父を語る『場所』(’84年度ルノードー賞)、母を語る『ある女』などを経て、『シンプルな情熱』では自己の性愛体験を語って大反響を呼び、ベストセラーに。2022年ノーベル文学賞受賞。中篇「事件」(『嫉妬/事件』ハヤカワ文庫に収録)を原作とする映画『あのこと』は、2021年のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞。人工妊娠中絶が違法だった1963年のフランスで、予期せぬ妊娠をした大学生の苦悩を描き出す、自身の体験を基にした作品。
あわせて読みたい
▶【鈴木保奈美さん】専業主婦時代を語る「完璧な母親も子どももパートナーもいない」
▶【短歌ブーム】「育児中にも短歌を」その理由は?歌人・高田ほのかさんに聞く
▶女優・杏さん「ベビーシッターを頼むのはちょっと……と感じるときは」
取材・文/髙田翔子 編集/フォレスト・ガンプJr.
*VERY2023年8月号「世界中の女性たちはなぜ今、アニー・エルノーを読むのか」より。
*掲載中の情報は誌面掲載時のものです。商品は販売終了している場合があります。