オリンピック選手から新聞記者へ転身「挫折を味わった私だから書けること」

4年に一度の祭典で世界中を感動の渦に巻き込むオリンピアン。引退後、皆が指導者や競技に関わる職業に就くわけではなく、選ぶ道は人それぞれ。でも新たな道を決めるきっかけとなったのは、やはり「選手」だったからこそ見えた景色、出会い、思いだったようです。

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西澤綾里さん 42歳・千葉県在住
(株)産業経済新聞社 運動部記者
競泳 100mバタフライ ’96 アトランタ五輪 6位

勝敗では計れない 選手の想い。
挫折を味わった私だから書けること

記者として産経新聞社に勤務されている西澤(旧姓 青山)綾里さん。中学在学中に100mバタフライで日本新記録を樹立し、’96 年アトランタ五輪代表に選出。14歳の最年少選手として期待を背負っての出場でした。

「決勝の舞台で大きな歓声を浴びた瞬間に初めて感じた恐怖。足は震え、気づけばレースは終わっていました。結果は個人6位。メダルには届きませんでした」。

試合後、「お前の挑戦はこれから、ここで終わりではない」というコーチの言葉で再び奮起した西澤さん。アトランタ五輪から2年後の世界水泳選手権では個人で銀メダルを獲得したのです。しかし、この大会を最後に西澤さんが得意とする泳法、スタートとターン後の潜水が距離制限されることに。必然的に記録は落ちると頭で予想していたものの、いくら練習しても結果が出ず苦しんだ西澤さんは大学3年生で現役を引退し、水泳部マネージャーに。

〝選手〟という軸を手放し、将来について悩む中、新聞社から小学校での講演依頼が。「講演で水泳選手としての経験を語っていたら涙が出ました。すると、子供たちの中にも涙する子が…。メダルを獲得していない選手の話なんて興味ないだろうと思っていた私にとって、その姿が伝えることの喜びを感じさせてくれました。そして、同行記者の『記者の仕事も伝えること』という言葉が、新たな目標を授けてくれたんです」。

’04年西澤さんは産経新聞社に入社し、’12年記者として初めて五輪の地ロンドンへ。「私自身、結果を残せなかった五輪に対してトラウマがあり、正直、選手を素直に応援できませんでした。でも、記者として赴き、心の底から声援を送る自分がいて、何より『五輪も水泳も最高』と思えたことが嬉しかった」。

西澤さんが記者として大切にしているのは、結果だけで計れない選手の思いに寄り添うこと。その思いはアトランタ五輪決勝レース直後に撮影された一枚の写真から生まれました。「失意の私が田中雅美さんに慰められている写真が新聞に掲載されたんです。普通はメダルが取れなかったレースの記事なんてボツ。でも、それを敢えて掲載してくれた。結果がどうであれ私のことを見続けてくれる人がいたことに、私と両親の心は救われました」。

メダルを取った選手だけでなく、取れなかった選手にもスポットを当てたい。その思いは実を結び、リオ五輪では「敗者の背中」という企画も担当されました。

「負けた悔しさや勝つ喜び、夢を追いかける必死さ。水泳を通して様々な経験をし、今の私がいます。水泳を再び好きになることができたのは記者になったから。これからも選手や両親が喜び、励みになる記事を書き続けていきたいと思っています」。

「時間に不規則な記者の仕事。結婚後は夫の協力、出産後は育休や時短勤務など会社制度に助けられてます。私たちの仕事って選手の活躍や努力があってこそ。自分も選手だったからこそ、なおさらそう思うようになりました」

<編集後記>厳しい練習で培われたチャレンジを恐れない心

自身の物語を感情豊かにお話しされる西澤さん。中でも14歳で大きな重圧を背負って挑んだオリンピックという大舞台でのエピソード部分では、私もカメラマンも思わず親目線になり涙が止まりませんでした。きちんと新たな道を見つけ果敢に挑めるのは、選手として多くの努力を積み重ねてきたからだと感じました。(ライター 上原亜希子)

撮影/BOCO 取材/上原亜希子 ※情報は2024年9月号掲載時のものです。

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