娘の百円玉ハゲがあることを知り、受験ストレス?と不安になって…【中学受験小説】
【前回まで】久しぶりに3人で集まった昼下がり、ビールを片手に本音トークが始まる。「義父母の期待に応えることが私の務め。息子・真翔は神取家の“トロフィー・キッズ”」という玲子、「夫から見下される私はトロフィー・ワイフかもしれない」と認めるエレナ、そして美典は自身の劣等感、「高卒で何の取り柄もない普通の主婦」と、それぞれ秘めた思いを口にするのだった。
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久々の女子会でコンプレックスをさらけ出す本音トークに…【中学受験小説】
【第十四話】 小5・3月

おつかれさまでしたというPTA会長の声で、保護者たちは三々五々に解散した。中休みのチャイムが鳴り、子どもたちが廊下に出てくる。職員室の前の壁に貼り出したばかりの『百人一首大会結果発表』を指さしたりして歓声を上げる。六年生の子たちだろうか。「二組強かったよね」という声が聞こえた。少し向こうの壁には、桜の木を模した六年生へ在校生からのメッセージ。もうすぐ卒業式だ。
「小向さん、じゃあまた」
同じクラスの母親が声をかけてくれる。またね、と美典は笑顔で手を振った。二学期の保護者会の際にくじで百人一首大会の係りを引いてしまった時は自分のくじ運のなさを嘆いたが、思っていたよりもやることが少なかったし、同じ学年の母親たちとも仲良くなれてよかった。引っ越してきて三年。ようやく美典自身も転校生ではなくなったようだ。
そんなことを考えていると沙優のクラス担任である小田原先生が、こちらに向かって歩いてくる。
「先生、お世話になっております」
「小向さん、どうも。何かわたしに?」
「いえ、百人一首大会の係りで、いまこれを貼ったところなんです」
美典が壁を手で示すと、小田原先生はそれを見て驚くように目を見開いてから、「係りでしたか。ご協力ありがとうございます」と深々と頭を下げた。それから顔を上げると何かを思い出したのか、小田原先生は両手を打った。
「ちょうどご連絡しようかと思っていたところだったんです」
「うちに? 何ですか?」
聞き返した美典を、小田原先生は廊下の端に呼び寄せた。
「昨日、養護の山越から報告があったんですが、沙優さんが体育で転んで膝とこめかみのあたりを擦りむいたようなんですよね」
「はい。保健室で絆創膏を貼ってもらったって」
帰宅してすぐに本人から転んだと報告があったので知っていた。膝はともかく、顔の近くの怪我は心配したが、どちらも絆創膏一枚貼っただけで済む程度のものでホッとし、さほど気に留めていなかったが。
「怪我自体はたいしたことがなかったみたいなのですが、山越が言うには、沙優さんの耳の後ろあたりにちょっとしたハゲができていたようでして…… お母さま、お気づきになっていましたか?」
「ハゲ?」
あまりに唐突なことで、美典は大きな声が出てしまい口に手を当てた。
「山越が言うには、百円玉くらいの大きさだったようです」
絶句した美典を見て、うんうん、と小田原先生は理解しているというように頷く。
「普通にしているぶんには見えないくらいのものだというので、そんなに心配しなくても大丈夫だとは思います。ただ、沙優さんに言ったら、本人は知っていたようなんですね。お母さんは知っているのかと訊いたら、たぶん知らないと。ちゃんとお母さんに話したほうがいいよって伝えたみたいなんですが、本人からの報告はなかったってことですよね」
「保健室で処置してもらったことは聞いていたんですが」
「子供の脱毛症は、まあよくあることです。高学年になると思春期にも入ってきますから。沙優さん、受験されるんでしたっけ?」
小田原先生に訊かれて、はい、と美典は頷いた。
「そのつもりです」
「何かしらのストレスがあるかもしれないですね。この手のことは気にしすぎると悪化しかねませんが、気には留めてあげてください。沙優さんがお母さまに言いにくいようなら、一人で抱えているのかもしれないので、さりげなくそのことに触れて共有できるといいと思うんです」
では次の授業があるので、と小田原先生が頭を下げて職員室に入って行った。
学校を後にしパートに出ても、沙優の耳の後ろにあるというハゲのことがずっと頭にあった。最近は朝の勉強も忙しくなり、自分でもできるというので、髪を結ってあげていなかった。以前のように三つ編みでもしてあげていたら、気づけたかもしれないのに。
客足が途絶えたところで、美典はたまりかねて店長の香代に相談してみると、「うちの娘にもあったよ」と軽く返ってきた。
「本当ですか? 先生もよくあることだって言っていたけど」
「高校生の時よ。本人から言ってきたわ。よくよく聞けば友達関係のことで悩んでいたみたい。心と体は繫がっているって言うけど、あれって本当だよね」
「どうやって治したんですか」
「皮膚科を探してあげたら、しばらく通っていたわよ。高校生だったから、一人で行っていたし、どういう治療をしたのかまで覚えていないな。だけど、脱毛症とは限らないかもしれないよ。自分で抜いている場合もあるみたいだから」
「自分で?」
「抜毛症っていうんじゃなかったかな。それもストレスから来るものよ。だけど、気にしすぎるとよくないっていうから」
小田原先生と同じようなことを香代にも言われ、美典は頷いた。小田原先生にも成人した子供が二人いると言っていたし、ベテランの母親にしてみれば、よくあるトラブルの一つにすぎないのかもしれない。だけど、幸いなことにこれまで沙優は大きな病気も事故もしてこなかったものだから、動揺してしまう。
パートから帰宅してからも、沙優のことばかり考えていた。早く沙優に会いたくてたまらない。いつも一人で帰宅させていたが、美典は久しぶりに塾の前まで行って沙優が出てくるのを待った。
ストレスで心当たりがあるとすれば、一つだ。小田原先生も察しがついたから、受験するのかどうかと訊いてきたのだろう。あの子のためを思ってはじめたことで、最近では本人も成績が上がっていくのを楽しんでいたようなのに、それでもストレスになっていたのだろうか。必要以上の負荷をかけてしまっているのだろうか。もしそうだとしたら、中学受験から撤退するべきなのだろうか。いや、
そんな…… ここまで来て、撤退だなんて。これまでの頑張りが水の泡になるなんて…… 耐えられない。
待って、耐えられないって…… 沙優が? それともわたしが?
頭の中がぐちゃぐちゃになりそうになっていると、塾の建物から小学生の子供たちが出てくる。しばらくすると、三、四人の女子グループが出てきて、その中に沙優の姿を見つけた。
「沙優!」
美典が声をかけると、沙優は驚いた顔をし、友達に何か声をかけてからこちらに駆け寄ってきた。
「ママ、なんでいるの?」
「なんでってことはないけど、たまにはいいでしょう」
内心の憂鬱を隠すようにして、美典は明るく微笑んでみせる。
「今日さ、社会で初めて公民をやったの。えぐいよ、むずすぎ」
そう言いながらも、沙優はどこか楽しそうだった。
「公民って、難しい時事用語がたくさん出てくるものね」
「沙優、社会は国語の次に得意じゃん。公民で点数を落としたくないわー。あっ、今日のお弁当のオムライス美味しかったー。夕飯、なあに?」
無邪気に訊いてくる娘に、麻婆豆腐だよ、と美典は答えてから、ところでね、と切り出した。
「今日、学校に用事があって小田原先生に会ったの。昨日保健室で怪我の手当てをしてもらったって言っていたじゃない? その時に養護の山越先生が、沙優の耳の後ろにハゲみたいなものがあるのを見たって聞いたんだけど…… それ、見せてくれる?」
美典がそう言うと、ああ、うん、と素直に頷き、このへん、と雑な手つきで右の耳の後ろあたりに手を当てた。ちょっといい? と立ち止まらせて目視すると、あまり目立たないが、たしかに百円玉ほど毛が生えておらず、頭皮の地肌が見えているところがある。
「これ、いつ頃から? って訊いてもわからないか。沙優は気づいていたの?」
「気づいていたけど」
「どうしてママに言わなかったの?」
「べつに、病気とかじゃないし。心配しなくてもいいし」
「病気じゃないかどうかは病院で診てもらわないとわからないでしょう」
「違うんだって。病気じゃないんだってば。だって沙優が抜いちゃってるから、それで禿げちゃっただけだから」
バイト先で香代が言っていた抜毛症のことがすぐに思い浮かんだ。
「自分で? どうしてそんなこと?」
どうしてっていうか、と沙優は少し困ったように首を傾げる。
「何となーく?」
「ちょっと、何となくで抜いちゃダメだよ」
「何となくっていうか、勉強しながら髪を指でこうやって摘みながら撫でると、うねうねってなってる髪があるんだけど、それが気になって抜いちゃう」
「気になっても抜かないで、ねえ? 絶対に」
「はいはい、わかりました」
面倒くさそうに軽く言って終わらせようとするその表情に、深刻さはない。だからといって、深刻ではないと言い切れない。本人が気づいていないだけで、何かのSOSなのかもしれないのだから。
—
「では次のメール。ラジオネーム、『六年生応援ママさん』から。エレナさんこんにちは。いつも仕事や家事をしながらエレナさんの声に癒されています。わー嬉しいな、ありがとうございます。さて、小学六年生になる長女は中学受験のために大手塾に通っているのですが、思うように成績が上がりません。娘は自信もやる気も喪失、母であるわたしはモヤモヤ、イライラ。いっそやめちゃったほうがいいのかなと考えたり。エレナさんはどう思いますか? それと、ご機嫌ママでいられるコツがあれば教えてください…… というわけなんですが、わかりますよー、モヤモヤ、イライラ、しちゃうのよ」
ラジオのブースの中で、エレナは一人で話している。が、ガラス張りの向こうにいるスタッフのディレクターやマネージャーの吉野が頷いたり笑ったり反応してくれていて、この和気藹々とした雰囲気が、エレナは心地よい。
「うちの息子も四月から六年生で受験も検討しているんですけど、いつでも臨機応変に対応できるようにと思っているんですよね。受験するって決めたから絶対に完走するんだって思いすぎないようにしているっていうのかな。これまで頑張ってきたのにもったいないって思うかもしれないけれど、その頑張りが無駄になることってないですよね」
FMベイサイドの『尾藤エレナのラ・ヴィ・オン・ローズ〜薔薇色の人生』は類が三歳の時に始まったので、かれこれ七年続いている。リスナーはエレナと同世代の女性が多く、ここ数年は子供を持つ母親からの育児や教育についてのお悩みメールが増えていた。
「ご機嫌ママでいられるコツ? 何だろう? わたしも教えてほしいくらいなんだけど…… そうだな、子供の勉強に詳しくなりすぎないこと? イライラしたら、ありきたりだけどワインを飲みながら音楽を楽しんだり、お風呂に入りながら映画を観たり…… ママであることからちょっと距離を置くといいかも? ということで、さて次の曲に行きましょう。悩みなんて忘れて踊りたくなるような、ラテンのナンバー」
ラジオの収録が終わってヘッドフォンを外すと、ブースの扉が開いて吉野が入ってきた。
「お疲れ様でした! 今日もバッチリです。ところでエレナさん、今日発売の週刊『アクセス』に撮られちゃってましたよ」
吉野は青い表紙の週刊誌を広げて差し出す。エレナがあからさまに表情を歪めると、たいした記事じゃないんですけど、と吉野は安心させるように言い足した。見てみると、淡田と一緒に犬の散歩をしているところを盗撮されたものだった。
『妻は高級コート 夫はベンチコート 結婚十二年目ラブラブ愛犬散歩』
本当にどうでもいい内容だった。さくらを連れたマックスマーラのキャメルのコートを着たエレナと、スポーツメーカーの黒いベンチコートを着ている淡田が写っているだけだ。くだらないネタだが、まるでエレナだけ贅沢をしているような構図で悪意しかない。学生時代にサッカー部で今でもフットサルをしている淡田はベンチコートが最強の防寒具だと思っているだけなのに。
それにべつにラブラブでもなく、エレナがさくらを散歩させるタイミングに淡田がコンビニに行くというので、エントランスを出て数メートルほどの道を一緒に歩いた、その瞬間を切り取ったもの。駒沢ハレクラニにはエレナたち以外にも芸能人が住んでいるので、ネタ探しに張り込んでいる記者がいると聞く。こんな写真を載せるくらいニュースがないのだろうか。
「見る人が見たらどこのマンションかはわかっちゃうんで、版元にクレームを入れておきます」
「お願いね。もう二度とあんな思いをしたくないから」
「ですよね」
まだ『グッドプレス9』のキャスターをしていた頃、エレナは悪質なストーカー被害を受けたことがあった。エッセイでエレナが薔薇の花が好きだと書いたからか、ある日から毎日事務所に薔薇の花束が送られるようになったのだ。花屋に送り主を問い合わせてみたところ偽の名前と連絡先だとわかり、花屋には今後いっさいこちらへの注文を受けないように伝えた。それで落ち着いたかと思ったら、今度はエレナが一人暮らしをしていた品川の部屋に送られてきた。住んでいるところを知られているとわかり、怖くてしかたがなかった。事務所の人間に頼んで、注文を受けている花屋に対応をお願いし、さらに警察にもマンション周辺の警備を強化してもらうように頼んだ。
「結局、犯人は特定できたんでしたっけ?」
「できなかったの。花屋の筆跡からたぶん女性だとわかったくらい」
その一件があったことから一人暮らしが怖くなり、エレナは淡田のプロポーズを受けることにしたのだから、災い転じて…… とも言えなくもないのだが。

「エレナさんって、高嶺の花だから男性は尻込みするんだろうけど、同性からは熱烈に憧れられたりするんですよね」
「吉野くん、まるでわたしがモテないみたいな言い方しないでくれる?」
「なわけないじゃないですか」
そんな話をしながらラジオ局の廊下を歩いていると、スマホが震える。類からだった。
「はいはい、どうした?」
「あのさ、ママ、目が痒くてたまらないんだけど、病院でもらった目薬を差してもいい?」
「いいわよ、いつものところにある。薬を飲んで落ち着いていたのにね」
アレルギーを持っている類は、疲れやストレスが溜まると結膜炎や鼻炎を発症しやすくなる。新六年生となり、彼なりにプレッシャーを感じているのだろう。
「目薬を差したらいつもよくなるから大丈夫だと思う」
「そうね。これから塾? 今日は理科と社会でしょう。一問一答テストの勉強はできてる? 理科は食物連鎖だったよね。社会は、公民だものね。ちゃんと暗記できている?」
「できてる。じゃあ、もう行くから」
「いってらっしゃい」
そう言って通話を切ると、類くんですか、と吉野が訊くので、そうそう、とエレナは頷いた。
「ところで子供の勉強に詳しすぎますよね、エレナさん」
さっきラジオで言っていたことと違うと言いたいのだろう。
「オフィシャルとプライベートを分けることは、この業界では常識でしょう」
エレナの言葉に、ですね、と吉野は含み笑いをこらえるような顔でこちらを見ていた。
(第十五話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年4月号掲載時のものです。
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