【堺正章さん・小春さん親子インタビュー】「娘」が「後輩」になった時に誓ったこととは?
子どもが自分と同じ仕事に就きたいと言ったら、あなたならどう思いますか? 嬉しい半面、大変さをよくわかっているからこそ、両手離しで喜べないかもしれません。ましてや、愛娘が芸能の世界に進みたいと言ったら?今回は、父と同じ道を歩くと決めた娘と、見守る父の思いを、たっぷりと語っていただきました。
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「娘」が「後輩」になった時に誓ったことがある

<右>Masaaki Sakai
’46年、喜劇俳優・堺駿二の次男として誕生。’62年ザ・スパイダースに加入しボーカルとして人気を博す。解散後は、ソロ歌手活動の傍ら、俳優、司会者として「西遊記」「チューボーですよ!」「麒麟が来る」など多彩な番組に出演。日本を代表するタレント。
<左>Koharu Sakai
’94年、堺正章氏と岡田美里氏の次女として誕生。10歳で『アニー』に出演し、’15年に堺小春と改名して舞台『転校生』で再デビュー。’18年『金魚鉢のなかの少女』で初主演。’21年に結婚。NHK連続テレビ小説「虎に翼」の小野知子役で注目を集めた。
小春さんが 芸能の道に進もうと決めた訳

小春さんが、堺小春と改名して、芸能界に再デビューしたのは’15年のこと。
―役者になろうと思ったきっかけは?
小春さん
昔から舞台が好きでした。明治座で毎年父の公演があり、姉と一緒に花道近くの関係者が見る小部屋からいつも舞台を見ていました。父が、私たちにしかわからない合図をそっと送ってくれるのも楽しかった。
正章さん
ショーの前の音合わせの時、手をつないでステージに出て行ったりもしたね。
小春さん
姉より、私のほうが父の仕事について行きたがりましたね。シアタークリエのこけら落とし公演が特に好きで。ランドセルを背負ったまま、劇場に通っては、楽屋に行ったり、客席から舞台を見たり、舞台袖でマネージャーさんの真似事をさせてもらったりしていました。
正章さん
場の空気を吸ってしまうんでしょうね。小春は、そこで何かを感じたのかもしれない。
小春さん
この道に進むきっかけになったのかもと思います。
―正章さんも、5歳の時に、お父様の堺駿二さんがお芝居をされている京都の撮影所に一人でいらしたそうですね。
正章さん
当時はまだいいかげんな時代でしたから、「坊や、出るかい?」なんて言われて衣装を着せられてちょろっと出たりもしました(笑)。でも、その時見られる喜びを知ったことが、のちに芸能の道に進むきっかけになったかもしれないですね。仕事仕事で家にいない父で、寂しくはあったけれど、信念を持って役者をしている姿を見て、納得せざるをえないものがありましたね。
―小春さんの初舞台は『アニー』とお聞きしています。
小春さん
はい、そうです。舞台を見た時、絶対これに出たいと思ったんです。それで、3回オーディションを受けたんですが、玉砕。姉が先に受かったのが悔しくて、毎週レッスンに通って、ようやく4回目で受かりました。
正章さん
落ちたことはいい経験。失敗のなかから生まれることは大きいから。舞台を客席からハラハラしながら見ていたけれど、堂々としていて、今思えば小春の人生の予告編だったのかな。
小春さん
でも、あの時は『アニー』には出たかったのですが、将来芝居をしたいとか女優さんになりたいとは、思っていなかったんです。
堺の名を継ぎ 役者の道へ

―その後は学業優先で芸能活動はされなかったんですね。
小春さん
はい。高校は芸能コースでしたが、大学は全く異なる学科で、大学が初めてのふつうの世界でした。父の名が世に知られていて、いつも堺正章の娘というフィルターをかけて見られている気がしていました。当時は、自分が何者だかわからない、私は私なのにと、モヤモヤした状態でした。ちょうど就活の時期でもあり、自分は何が好きなのかと考えてみた時、心に浮かんだのが舞台でした。アニーに出たとき、舞台に立った瞬間、いつもの引っ込み思案な自分とは全く違う人に変われた。その感覚は今も覚えています。それで、大学4年の時に舞台のオーディションを受け、もう一度舞台に立つことに。再デビューにあたり、父に〝堺〟の名を使わせてほしいと話しました。
正章さん
その時は嬉しかったですね。〝堺〟は芸名で、父・駿二が恩師の早川雪洲氏からいただいた大切な名で、重みをずっと感じてきましたし、父の存在があったからこそ自分はやってこられた。でも、〝堺〟は自分で終わるのだと思っていました。それを継ぎたいと言ってくれたのは私としては願ったりかなったりで。成功してから名を継ぐのが定石ですが、早くに名を継いで、努力して作り上げてくれればいい。花が咲くのは早くなくてもいい世界ですから。
娘から報告を受けた時、それまでは、娘と父という立場だったのに、先輩・後輩の間柄になってしまいました。私はありがたいことに早くに売れたのですが、いつまでもいい時期が続くわけがありません。だから、力をつけなきゃと、あとから苦労が始まった。辛いことも、うまくいかないことも多かった。だから娘を止めたいとは思わないけれど、他の選択肢もあるなか、よくも大変な世界に入ってきたなと。のれん分けはできない厳しい世界なので、希望と不安が入り混じった気持ちです。ただ、私は父に「途中でやめるな」と言われ、それを父との約束と思って63年やってきました。小春にも、間違ってもいいから自分の思いを貫いて、続けていってほしいと思っています。
―2世タレントさんは、親御さんの全面的なバックアップを受ける場合もあるようですが、小春さんはご自分でオーディションを受け、事務所も自身で探して入られたんですよね?
小春さん
はい。父の名前を全面的に借りるのは違うなと思って。自分として評価されたいと思ってこの世界に飛び込んだからには、どんな役でもやらせてもらい、ゆっくりでも一歩一歩階段を上っていきたい。自分の名が先にあって、「小春のお父さん、マチャアキだったの?」と言ってもらえたら嬉しいです。堺という名をもらったのは、半端な気持ちではなく、責任を背負って、死ぬまでこの世界でやっていこうという覚悟なんです。
正章さん
確かに娘が頼ってくる感じは全くないですね。自分で勝負するしかない世界ですから。僕ができることというと……差し入れくらいですかね(笑)。
小春さん
いつも舞台のお弁当とか、ありがとうございます!(笑)
正章さん
あと、役者は、確認がほしいものなんです。生の舞台上の自分を見るのは不可能。だから、舞台を見に行って、明日の希望になるような感想をちょっと伝えたりはします。マイナスなことは言わない。自分で気づくことですから。
娘ですから、120%応援したいんですよ。でも、僕ができることと、やっちゃいけないことがある。まったく、なんでこの世界に入ってきちゃったんだよ、って思うこともありますよ。
離れて暮らした娘たちへの思い

―小春さんの結婚パーティの時、お父様とファーストダンスを踊られたそうですね?
小春さん
はい、コロナ禍に結婚したので、念願のガーデンウエディングを、昨年しました。ファーストダンスは夫とするものなんですが、父と踊りたくて。事前に練習していなかったのですが、「大丈夫だよ」とリードしてくれて。頼もしかったです。
―また、正章さんのスピーチもネットで話題になっていました。
正章さん
小春が7歳の時、親の都合で、娘たちと離れることに。家を出ていくときの子供たちの「パパはなぜ来ないの?」という何とも言えないまなざしが今も本当に忘れられなくて。謝罪の気持ちで涙が溢れました。
小春さん
でも、父の家には歩いて行ける距離で、自由に行き来していたので、近くにいてくれていると感じていました。複雑な思いはあったけれど、逆にいいバランスでもあり、思春期に父を嫌ったりすることなく、ずっと好きでいられる環境でした。
―愛情を感じていたんですね。タレントとしてではなくお父さんとしてはどうですか?
小春さん
デレデレなパパです。私ももう30歳を超えましたが、愛娘と思ってくれていて、私のことを本当に好きなんだなって。でも、この世界に入って、父親としてだけは見られなくなってしまった部分もあって。
正章さん
それが小春の自覚なんでしょうね。この子の姉は芸術家タイプで、小春は職人タイプ。几帳面です。でも、女優として輝くには、危険なものや破壊的なものも持っていないと。この世界は、偶然にうまくいっちゃうこともあるけれど、それではだめ。自分で切符を買って目的に向かって進んでいってほしい。そしていつかは、拍手喝采を浴びる女優さんになってもらえたらと思っています。
<編集後記>
溺愛パパとお茶目な娘さんの温かさ溢れる対談でした
堺正章さんは、すばらしくオシャレで、穏やかでカッコよく、会話も軽妙。ヘアメークもされず、素のままで、写真も私たちに任せるという懐ろの深さ。これぞ本物の大スターだと感動しました。一方の小春さんは素直でかわいらしくチャーミング。自力で道を切り開いていこうというパワーがみなぎっていて、将来が楽しみだなと感じました。(ライター 秋元恵美)
撮影/須藤敬一 ヘア・メーク/岡澤愛子(小春さん)取材/秋元恵美 ※情報は2025年9月号掲載時のものです。
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