30代で「徐々に歩けなくなる難病」に。二児の母がそれでも前を向く理由

中高時代の同級生と28歳で結婚。その後生まれたお子さんが2歳と0歳のとき、徐々に歩けなくなる難病を発症した松本由起さん。それでも前を向き続ける理由と彼女を支える家族や友人たちを取材しました。

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※VERY2019年7月号に掲載された記事を再編集したものです。

Profile
松本由起
(まつもと ゆき)さん

埼玉県久喜市生まれ。短大時代はイベントコンパニオンのアルバイト、卒業後は広告代理店などの勤務を経て、中学・高校の同級生だった夫と28歳のとき結婚。その後、2人の男の子を出産。直後、難病の「脊髄小脳変性症」と診断。リハビリを続ける。

 

夫とは高校生のときにお付き合いを始めました。私の友人たちとも仲良しです。

父からの遺伝性の
脊髄小脳変性症でした

28歳で、中学・高校の同級生だった夫と結婚して、間もなく長男・廣友(ひろとも)が誕生。その後、水道局関連のパートをしながら、実家に近い埼玉県久喜市に自宅を建て、次男・由宇(ゆう)が誕生。子育てはバタバタでしたが、それでも穏やかで幸せな毎日を過ごしていました。自分の体の変調に気が付いたのは、次男を出産した後くらいからでした。何だか歩きづらいのです。スムーズに足が運べない、バランスが取りにくい、つまずく。でもちょうどその頃、産後の骨盤ケアベルトをしていたから、そのせいかな?元々おっちょこちょいだからかな?くらいに思っていました。

家族で私の異変に最初に気が付いたのは、夫の母。私の歩き方がおかしいことに気が付き、夫に伝えてくれたそうです。そして、私も、次男をベビーベッドから抱きかかえたときにバランスを崩し、次男もろとも転倒することを避けるため、咄嗟に次男をベッドに投げ置いたことがあり、もう気のせいにしちゃいけないと思うようになっていました。夫とも相談し、診察を受ける決心がつきました。

地元の病院の脳神経内科で血液検査、MRI検査などを受けました。告知された病名は「脊髄小脳変性症」。四肢の運動をつかさどる小脳の萎縮により、主に手足がうまく動かせなくなり、歩行時にふらついたり、呂律がまわらないなどの症状が徐々に表れる難病です。

そして、「お父様からの遺伝ですね」と言われました。実は私が23、24歳の頃、父が同じ脊髄小脳変性症を発症していました。父も祖父からの遺伝だったそうです。でも父の症状は軽く、足を引きずるような歩行ではありますが、生活に支障はなく、遺伝の可能性があることも母から聞いていましたが、それほど深刻に考えることも、すぐに自分が遺伝子検査を受けることもしていませんでした。

いざ自分が告知をされたときは、落ち込みや動揺よりも「やっぱりそうなんだ……」という妙に腑に落ちるような不思議な感覚でした。どこかで覚悟をしていたのかもしれません。一方で、やはり自分の子どもへの遺伝のことは気にかかりました。そして、私にとっては家族の遺伝でも、私と結婚しなければ何も関係のなかった夫、そして夫の家族には、若くしてしなくてもよい一生の苦労に巻き込んでしまったことを申し訳なく思いましたが、夫はすでに自分事として向き合う覚悟を決めてくれていたようで、医師への質問も、患者本人である私よりも細かくしっかりしてくれていました。

 

検査結果を聞いて家族は……?

私の母はきっとこの日が来ないことを願っていたのでしょう。検査結果を一緒に聞きに行ったときの残念そうな顔は忘れることができません。父は気難しい人で、元々あまり多くを話す仲ではなく、今に至るまで遺伝について話したことはありません。ただ、母からは父は申し訳なく思っているみたいだと伝え聞きました。それで十分です。遺伝は仕方がないこと。当然、発症しない方がよかったけれど、今、優しい家族、友人たちに囲まれている私は、両親から生まれなかったら存在しません。父を恨んだりすることはまったくありません。今の方が「こういうとき転びやすいよね」「こういう転び方は大腿骨骨折をしやすいから気を付けた方がいいってリハビリの先生が言ってたよ」などと、同じ難病を患っている者同士だからこその会話が増えているかもしれません。

私がもたついていると、家族の誰かしらがすぐにやってきて、手を貸してくれます。

 

≫≫特効薬はない。徐々にできなくなることが増えて……

症状は進行していますが
家族の支えで前向きに

脊髄小脳変性症には、まだ根治できる特効薬はなく、セレジストという進行を遅らせる薬を服用していますが、ゆっくりと徐々にできなくなることは増えていきました。

発症してからも、主に座りながらできる事務のパートは続けていましたが、3年ほど前(取材当時。以下同)、駐車場に車を停めて、会社に向かおうとしたときに派手に転んで花壇に顔から突っ込み、額を6針も縫うというアクシデントが起きてしまいました。それは傷以上にショックな出来事でした。そんなこともあり、退職。自分の足で出歩くことが怖くなり、自宅では歩行器、外では車イスの生活になり、2年ほど前に障害者3級、2018年に2級の認定を受けました。

 

のコトバ……
行ける限り、いろんなところに行こう

 

体を自由に動かせない肉体的なもどかしさはあります。しかし今は不思議と精神的な喪失感はありません。それはこの難病が本当にゆっくりと進行する病であるため、受け止める時間的猶予があること、そして体の自由と反比例するように、家族や友人たちがいつも私を気遣ってくれる優しさをたくさん感じているからだと、感謝しています。

発症前はそこにあることも気付かなかったような数センチの段差も、今は大きなハードル。例えば、家族で登山に行くのも、足に異変が出てから私だけロープウェイで山頂へ行き3人を待っているようになり、今ではそのロープウェイの乗り降りが難しくなりました。でも夫は、「行ける限り、いろんなところに行こう」と行き先のバリアフリー環境などを率先して調べてさまざまな事前手配をしてくれたり、車イスを余裕で乗せられるハイエースに車を買い替え、遠出を躊躇してしまいがちな私を外に引っ張り出してくれています。このゴールデンウィークも千葉県館山に行き、家族で楽しい時間を過ごしました。外出時、手を借りて歩いていると、「ちゃんと腰を起こして!」「膝を使って!」とけっこうスパルタな一面も……(笑)。私もその叱咤激励に応え、行ける限りもっと思い出を作りたいと前向きに。おかげで行けなくなった、できなくなったとクヨクヨする暇はありません(笑)。ママは足が不自由で、普通の家族みたいにはいかないことも多いけれど、子どもたちには、あーだこーだ小言を言いながら支え合っているこんなパパママの姿を見せていくことで、何かを感じ取ってくれたらいいなとも思っています。

 

≫≫息子たちを抱っこできなくなっても……

子どもの成長が励み
笑顔で幸せなママでいたい

息子たちの無邪気さや、成長ぶりも私を支えてくれています。もう息子たちを立って抱っこすることはできないし、一緒に公園で走って遊ぶこともできません。しかしその分、私がソファに座って休んでいると、息子たちから懐に入ってきて甘えてくれる。ギュッと抱き寄せ、おしゃべりする時間を大切にしています。

 

息子のコトバ……
僕たちが助けてあげるよ!

 

また、家事でも頼る機会が増えています。どこまで私の病気を理解しているかはわかりませんが、私の申し訳なさをよそに、「ママは歩くのが下手だから、たまには助けてね」と言うと、廣友も由宇も「いいよ! 僕たちが助けてあげる」と言ってくれ、彼らの思いやりが垣間見られ、思わず顔がほころぶ瞬間です。名前を呼ぶと遊びを中断して私のところに駆けつけてくれるのですが、ときどきは、「何で僕のことばかり呼ぶの〜?」と片方が不服そうにするときもありますが、それもまた可愛い(笑)。ショッピングモールでも、率先して貸出し用の車イスを持ってきてくれる優しさも。起き上がるときや歩行のとき手を借りると、日に日に成長し力が強くなっていることもわかり、頼もしく、嬉しい気付きになっています。

子どもたちへの遺伝については、今はまだ検査を受けさせていません。もし遺伝が陽性だった場合、自分の将来を知って生きていくのは酷だと思うからです。私は知らずに青春を送れてよかったと思っています。子どもたちには、折を見てこの病気のことは伝える予定ですが、検査を受ける受けないは本人たちの意思に任せたいと思っています。そして、万が一、遺伝を受け継いでいたとしても、病気になってしまったママが今、彼らに幸せに見えていれば、少し不安を和らげることができるのではないでしょうか? だからこそ、私は決して強くはないけれど、いつも家族の前で笑顔でありたいと思っているのです。

左・長男 廣友、右・次男 由宇 2人ともサッカーが大好きで真っ黒に日焼け。

 

≫≫友人たちからのサプライズに驚いて

車イスでもオシャレを!
友人の嬉しいサプライズ

昔から仲の良かった親友たちには、外出が不自由になった3年ぐらい前に話しました。昔、沢尻エリカさんが主演していた『1リットルの涙』というドラマがありましたが、その主人公が脊髄小脳変性症でした。その病気になっちゃったんだよね……と告白すると、はじめは戸惑ったと思いますが、すぐにふざけたり、何でもないことでも大笑いするいつもの明るい私たちに戻りました。そんな自然体な彼女たちがいてくれたことも私が決して卑屈にならずにいられる一つの理由だと思います。今でも、私が出かけやすいように、自然に「由起の家集合でランチ行こう!」と誘い出してくれます。オシャレで素敵な彼女たちと一緒にいると、私もファッションやメークをもう一度頑張ろうという気持ちに。ヒールの靴は履けなくなっちゃったけど、ペタンコのオシャレなサンダルを探すのは得意になったし、シンプルで動きやすい服でいかに素敵に見せるか考えるのも楽しい!

車イス贈呈の発起人になってくれた高校、短大時代の親友たち。

 

友人のコトバ……
カッコいい車イス、プレゼントするね

 

2018年の暮れ、クリスマスパーティに誘われて参加しました。すると急に友人の一人が私宛ての手紙を読み始めたのです。「大好きな由起ちゃんへ……」から始まるその手紙には、友人たちの心配と心からの応援の気持ちが詰まっていました。そこで明かされたのが、高校・短大時代の友人が発起人となり、私のSNSを辿って、高校・短大以外の友人、知り合いにも声をかけ、賛同してくれた人たち20人くらいで車イスをプレゼントしてくれるということ。目録の代わりに渡されたのが、さまざまな車イスのパンフレット。私がそれまで使っていたのは市からお借りしたもので、もちろんとても有難く使わせていただいていましたが、デザインや機能は最低限のもの。それを見ていた友人たちが、私にカッコいい車イスをプレゼントしたいと思ってくれたようです。「これに乗ってこれからも一緒にいろんなところに出かけよう!」と。みんなの気持ちが嬉しく、カタログをじっくり見て検討させてもらった結果、ヤマハの車イスを相棒に迎えることにしました。今は届くのを楽しみに待っているところです。

 

友人たちが集めてくれたパンフレットで悩んだ末、これに決めました!

 

≫≫「自分の限界」は作らないと決めました

自分で自分をかわいそう
と思って生きたくない

以前は当たり前のように動いた足が、ほんの少しの段差に引っかかるし、不自由に感じることは挙げればきりがありません。

この難病が、よくて現状維持、ゆっくりと徐々に進行していくかもしれない、最悪寝たきりになる可能性だってあることもわかっています。でも、症状は人それぞれだから、私はあえてインターネットで詳しく調べたり、医師にネガティブケースについて追求して聞きません。自分の可能性に自分で限界を作りたくないのです。

〝なるようになる〞もしくは〝なるようにしかならない〞というコトバが意外と好き(笑)。それは決してあきらめではなく、未来なんて誰にもわからないし、難病に罹ってしまったことは辛いけれど、悲観して自分で自分をかわいそうに思いながら生きていくなんて勿体なさすぎると思うんです。

週2でリハビリにも励んでいますが、私は現状維持ではイヤだとさえ思っています。私はもう一度子どもたちと走り回りたい。家族や友人ともっと旅行に行きたいと思っています。その原動力はこんなにも応援してくれる家族、仲間の優しさを無駄にしたくないという思い。〝なるようになった〞先は、きっと明るい気がしています。

 

松本さんのHISTORY

 

1  埼玉県久喜市生まれで、弟2人と妹が1人います。下の弟妹とは10歳以上離れていたため、よくお世話をしました。2 夫は中学の同級生。高校も同じなので、共通の友人がたくさんいます。3 離れたりくっついたりを何回かしましたが、優しくいつも私をフォローしてくれる夫に惹かれ、28歳で結婚しました。4 男の子2人に恵まれました。サッカーが大好きで元気いっぱい。5  次男を出産した直後から体に変調を感じ、「脊髄小脳変性症」という難病と診断されました。今年、車イスも乗せられるハイエースに車を新調。これで子どもたちのサッカー応援も行きやすくなりました。6 家の中では、この歩行器が役立っています。

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撮影/真板由起〈NOSTY〉 ヘア・メーク/後藤若菜〈ROI〉 取材・文/嶺村真由子 デザイン/大塚將生  編集/磯野文子