慶應の射程圏内にいるかも!模試結果にうれしいドキドキを味わって…【中学受験小説】
【前回まで】娘・沙優が、塾のクラス順位を上から二番目に上げたことに心躍る美典。一方、エレナは一番上のクラスだった息子・類がクラスを1つ落とし、厳しく類を叱責してしまう。声を荒らげるエレナだが、仕事部屋から出てきた夫・淡田と教育方針の違いからいつの間にか互いの人間性をののしる夫婦喧嘩にまで発展して……。
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塾のクラス分けランクの上下に踊らされる母たち。夫とのケンカも…【中学受験小説】
【第十一話】 小5・12月
待ち合わせの時間より五分ほど早く着いた。『バディーズ』の中に入ってすぐに、窓際のテーブル席に座っている梶景子の姿を見つける。こちらに気づいた景子は片手を上げた。丸顔のおたふくのような微笑みに、美典の心も緩む。
「予約してくれてありがとう。けっこう混んでいるのね」
景子は座ったまま、美典の全身を眺めるように見る。
「ほんと、平日なのに」
美典はボアのジャケットを脱ぎながら店内を見渡す。子供を連れたママグループや大学生くらいの女の子たちなど、とにかく女性客で賑わっている。
「ここ、気になっていたの。意外と広いのね」
「奥に半個室みたいなスペースもあるんですよ」
美典が座ると、店員がお水とおしぼりとメニューを持ってくる。二人ともパスタランチセットを注文した。
沙優と景子の娘である李璃子は親友で、李璃子の誕生日にお泊まりさせてもらうことになり、それをきっかけに美典は景子とメッセージをやりとりするようになった。少し前に美典のパート先にも買い物に来てくれて、その時に美典のパートがない水曜日にランチをしようという話になった。景子は週の半分は在宅ワークだと言っていたが、何の仕事をしているのかまでは知らない。
知り合ってまもないママ友と二人でランチ。たぶん美典よりも年上のように見えるし少し緊張していたが、景子が親しみやすそうでほっとする。
「沙優から聞きました。李璃子ちゃん、次の舞台のオーディションで大きな役に選ばれたんですって」
美典の言葉に、景子は照れ臭そうに顔の前で手を振る。李璃子は児童劇団に所属していて、これまでもミュージカルをメインに出演しているようだった。名前を聞いても知らない劇団だが、地方公演にも参加しているというから、かなり本気で取り組んでいるのだろう。
「三番手の役なのよ。かなり主役に絡む役みたい。大変な張り切りようなのよ」
「大勢の人を前に表現できるなんてすごいな。ミュージカルの本場のイギリスに留学したいから、英語も頑張っているって、沙優から聞きましたよ」
「あの子、何でも大きく言うのね。英語を頑張っているっていうけど、習っているだけで、宿題だってせっつかないとしないんだから」
景子はそう言うが、沙優の話では李璃子は塾に通っていないのに学校の勉強がよくできるようだ。通知表もほとんど全部『よくできる』だったという。中学受験は考えていないらしいが、李璃子みたいな子は高校受験でトップ校に入るのだろう。
「来年の三月に公演があるの。チケットは用意するから、よかったら沙優ちゃんと観に来てほしいけど……あっ、沙優ちゃんは中受組なんだっけ」
「まあ、一応」
「この冬休みも講習会で忙しいでしょう」
たしかに、春休みには春季講習会があるし、友達の舞台を観劇する時間なんてないだろう。そう思うので、観に行くとは言えなかった。
「冬休みは年末年始以外、ほとんど塾ですね」
「一年後の冬休みなんて、元日しか休みがないんじゃない。ママも大変でしょう」
「親子で二人三脚なんて言われているけど、思っていた以上にきついものですね」
「子供一人ではとても管理できない量のプリントをファイリングしたり、これはやって、これはやらないって問題を選んだり」
そうそう、と相槌を打ちつつ、李璃子が中学受験しないのによく知っているなと思ってから、そういえばと美典は思い出す。
「李璃子ちゃん、お姉ちゃんがいるんでしたっけ?」
「そうなのよ。五つ上に姉がいて、長女は中受して本命だった女子校に入ったんだけど、いろいろと合わなくてね、中二の時にやめて公立に転校したの」
そう言った後、景子は声をひそめて女子御三家の一校の名前を口にした。
「めちゃくちゃ優秀ですね」
驚きのあまり声が大きくなってしまった。その時、店員が料理を運んできたので、いったん話を止める。なるほど。姉がそんなに優秀なのか。李璃子が学校のテストでだいたい満点を取っているというのも納得できた。
「優秀ってこともないの。鉄アカはやることが多くて、本当についていくのに必死で、何とかギリギリ入ったのよ」
店員がいなくなって、景子はフォークを手にして話を続けた。
「ギリギリでも、入れるだけすごい」
「合格判定でもずっと20%だったんだから。それでも本人が受けたいっていうから、ダメ元でトライしたら、まさかの補欠合格」
「へえ、補欠合格ですか?そういうパターンもあるんですね?」
「学校によるけど、御三家でも何人か出すのよね。でも、第一志望の子が多いし無理だろうと思って、合格をもらっていた第二志望校に入金もしていたの。それなのに、都立中高一貫校の合格発表の直後、繰り上げ合格の連絡が来ちゃって。当然そっちに行きたいっていうから、また入学金を振り込んで…… 先に払った20万円は捨てたも同然」
「イタタタ……、でもそういう話聞きますよね。一月に受けた埼玉の学校に振り込んだりすると、60万くらいかかったとか」
「そういうものよ。うちに限ったことではないのよね。そこまでして入学したのに、校則が思っていた以上に厳しいし気の合う友達もできないし、何よりもギリギリで入ったものだから勉強についていけなくて…… 辞めたってわけ。でも転校した先が楽しかったみたいで、ほっとしたわ。地元の公立中も悪くないのよね。いまは第一志望だった高校に入って、ソフトハンドボールに打ち込んでいるわ」
どこに進学したのかは聞かなかったが、景子の口ぶりでは納得できる学校に進んだのだろうと想像がつく。
「よかった。李璃子ちゃんのお姉ちゃん、高校生活楽しんでいるんですね。中受がすべてじゃないってこと……わかっているんだけど」
「あれこれと考えすぎないことよ。とはいえ、考えちゃうのよね?」
「こんなにも頑張っているんだから、望む結果がほしくなるっていうか。娘にも勉強、勉強って言っちゃう。あれもしてない、これもできていない……嫌な母親になっていくようで」
「長女の時のわたしも、そんな感じだったよ」
「景子さんみたいな優しそうなお母さんでも?」
「全然優しくないし、みんな似たようなものじゃないの? こんなふうに無理に詰め込むようなやり方を続けていたら、勉強が苦痛なものになるかもって悩んだものよ。でも、もう引き返せないじゃない。っていうか、その時は、いま進んでいる道しかないと思い込んでいたし。そんなことないのに。まだ小学生なんだから、先は長いし、いろんな選択肢があって当然なのに」
ねぇ、と景子に一応同意を求められるように言われ、美典は頷いた。
「憧れの第一志望に受かっても、辞めちゃうことだってあるんですもんね」
「そうよ。でも、やってきたことは身になっているの。何も無駄じゃない。それに思っていた道ではなくても、こっちのほうがよかったねっていうことだらけじゃない、人生って」
思っていた道じゃないけれど…… その言葉を反芻して、つい最近、店長の香代に言われたことを思い出す。
『人生なんて計画どおりにいかないもの』
たしかにそうなんだろう。それでも最中にいると、つい視界が狭くなってしまう。
「ごめんなさい、なんか先輩風を吹かせて偉そうなこと言っちゃった。ねえ、ここ美味しいわね。サラダとパスタ、ドルチェにドリンクがついて千五百円はお得」
話題の矛先を変えるように景子は言う。
「パスタの量もしっかりありますよね。ここを教えてくれたの、神取真翔くんママの玲子さんなんです」
「あの方ね、女優さんみたいにきれいよね。旦那さん、かんどりクリニックの先生でしょう。一度だけ診てもらったのよ。イケメンだった。たまたまホームページを見たら、慶應出身だって。真翔くんママはどんな性格なの?」
パスタを食べ終えた景子はフォークを置くと、前のめりになってこちらを見る。たまたまホームページを見るってどういうことなんだろう。
「玲子さん、きれいすぎるから一見とっつきにくそうだけど、話してみるとすごくフレンドリーなんですよ。情報通だし、何かと相談に乗ってもらったりしています」
「へえ? わたしが何かで話しかけた時は、素っ気なかったような気がしたんだけど……人を選んでいるのかしら」
左手の薬指につけている細い結婚指輪をいじりながら、景子は言った。
「そんな人じゃないですよ」
「そうなのね。そういえば、保護者会の時にキャスターの尾藤エレナさんとも話していたでしょう?」
他人は見ていないようでよく見ているのね、と美典は内心で苦笑する。
「玲子さんが紹介してくれたんです。エレナさんも気さくですよ。夏休み、別荘にも呼んでいただいて」
「うわ、セレブ。あんなにキラキラしたママたちとお付き合いできるなんて、すごい。わたしなら気後れしちゃうけど……すごいわね」
あれ? 今かすかにトゲを感じたような……。 二人に釣り合わないのに一緒にいられるなんてすごいと言いたいってこと? 真意を測りかねていると、そういえば、と景子は続けた。
「長女の時、六年生になると、ママ友とは疎遠になったものよ」
「えっ、どうしてですか?」
「受験が近くなったからよね。お互いに連絡しなくなったわよ。だから、彼女たちと親しくするのも、いまのうちかもしれないね」
景子のおたふくのような笑顔を見ながら、美典は少しぎこちなく微笑んだ。
—
慶應義塾普通部 40%
鉄碧アカデミー志望校判定模試が返却された。これまでのどの模試とも違う。志望校を記入し、現段階での合格できるパーセンテージが出るものだ。
玲子はスマホの画面に映し出された結果を凝視しながら、心臓あたりに手を当てた。ドキドキしてしょうがない。四教科は56・9だった。得意の理科が59を超えている。もっとも苦手な国語も50を切っていない。
「俺って天才なんじゃん? 慶應に40パーってやばくない? 俺すげー。お母さん、もう一回見せてよ」
ダイニングの椅子に座っている真翔が、立ったままスマホを食らいつくように見ている玲子に手を伸ばしてくる。
「待って、分析中だから!」
玲子はピシャリと言い、情報を整理しようとした。鉄アカでは、月間テストという毎月あるテストでクラス替えが行われる。大きく三つのランクにクラス分けされていて、上位がSクラス、中位がAクラス、下位がCクラス。それぞれ一番上が1クラスで6まである。ここ最近の真翔の成績は、偏差値50前後を行ったり来たり。今月のクラス替えでA3に在籍している。つまり、18クラスの中でちょうど真ん中。
翔一はバカにしたように言っていたが、優秀な生徒の多い鉄アカでの偏差値50はけっして悪くない。類と沙優が通っている啓明セミナーの模試など受けたことがないが、鉄アカの偏差値55は、啓セミの65、いやそれ以上かもしれない。とはいえ、慶應三校の偏差値は、鉄アカの偏差値で60である。50では実力は足りていなかった。
そこに来て、この志望校判定模試で56.9だ。御三家向けの思考力系の問題も多く出題されるという志望校判定模試の結果は、月間テスト以上に期待できないだろうと予防線を張っていただけに……望外の結果だ。
「……けっこう、悪くないのかも?」
玲子は誰に言うともなく呟く。普通部だけじゃない。中等部、湘南藤沢、三校とも40%。五年生の十二月にこの結果なら射程圏内だ。
分析を終えて、玲子はようやくスマホを抱きしめた。
「まーくん、いいかもしれない」
「だよね? 40パーって、あと10パーで50パーだもんね? それって、ほぼほぼ合格ってことっしょ?」
精神的に幼いし、いまだに隠れてゲームをしたり動画を観たりしているけれど、この子なりにいろんなことを我慢して、頑張っている。その結果だ。徐々に嬉しさが込み上げてくるも、完全に調子に乗っている真翔を見ると、浮かれていてはいけないという理性が勝る。
「よく頑張った! でも、ここで浮かれていたら足をすくわれるわよ。兜の緒を締めるような気持ちでさらに頑張れば、60パー、80パーと上がっていくはず。そうだ、個別をやめて、いい家庭教師の先生を探しましょう! 正直、あまり家に他人を入れたくないんだけど、ここまで来たら、そんなことを言っていられない。とことんやるしかないわ」
「ええ、個別、やめちゃうの?」
真翔は玲子からスマホを奪う。
「ここからは時間との戦いよ。移動時間がもったいない。お母さん、まーくんに合った国語のスペシャリストを探してあげるわね!」
玲子はフローリングに跪き、椅子に座る真翔の顔を両手で挟むようにして微笑んだ。やめてよ、と言いながらも真翔も嬉しそうだ。エレナは類の勉強についてあまり言わないほうだが、うっかり口を滑らしたのか、家庭教師が来る日だから、と言ったことがあった。それを聞き逃さなかった玲子はエレナ御用達の家庭教師センターを聞き出した。高い授業料だけあって、講師のクオリティも高いと言っていた。そこに連絡してみよう。
「お母さん、しかも見てよ。目黒工科大学附属中学校なんて、60パーだよ」
真翔はスマホを眺めつつ、青いシャープペンシルを器用に中指と薬指で回しながら言う。慶應の文化祭に行った時に買った、慶應オリジナルのシャープペンシルだ。
「すごいね。だけど、あなたが目指しているのは、そこではないけど」
「はいはい。わかってるよ。でも、文化祭が楽しかったし、いい学校だったじゃん。無線も面白かったし。60パーっていうの、なんか、誇らしいっていうか」
「そうよね」
「ねえ、お母さん。俺がさ、慶應に受かったら……嬉しい?」
「そりゃそうよ! 狂喜乱舞よ!決まっているじゃない」
「慶應なら、どこでもいい?」
「お父さんの母校の普通部が、ベストかな。でも、真翔には自由な校風の中等部も合っていると思うよ。ちょっと遠いけど湘南藤沢なら、グローバルに特化した最高の環境で六年間過ごせていいかもしれない」
そんなふうに口に出していると、どんどん慶應という存在の権化が自分に近づいてくるように思え、玲子は胸がいっぱいになってきて、また心臓あたりに手を当てる。ここ最近すぐにドキドキしてしまう。これって更年期なのかしら。まあ、いいわ。嬉しいドキドキなんだから、と玲子は満ち足りた笑みで真翔を見つめた。
「俺、本当に受かると思う?」
「受かるに決まってるわよ! あと一年、全力で頑張りましょう! 合格したあかつきには、まーくんがほしいもの、何でも買ってあげるから」
「えっ? 何でも?」
真翔は前のめりになり、小鼻を膨らませた。
「ええ、そうよ。何がいい?」
「俺、中学に入ったらアマチュア無線やりたいかも。そのための機械を揃えたいんだけど、その前に資格を取らないといけないんだっけ。慶應にも、目工大附属みたいな物理化学部があるかな?」
「あとで一緒に調べてみようか」
うん、と真翔は大きく頷いた。最近は反抗期なのか不貞腐れた態度をとることが増えていたから、久しぶりに素直な息子に会えたような気分だ。真翔はやっぱり翔一の血を受け継いだ、聡明な子。理科が好きだし、きっと理系に進むだろう。いまは物理に興味があるようだが、生物も嫌いじゃない。そのうち医師への道を志すはず。それもすべて中学受験のために勉強してきたからこそ。普通部に入って、医学部への進学も夢ではない。
なんだ、幼稚舎に入れなくてよかったんだわ! 玲子は心からそう思えた。
(第十二話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年1月号掲載時のものです。
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