「費やしてきた時間とお金を考えたら、失敗したくないって思うものよ」親が様々な思いを抱える小6の夏【中学受験小説連載】

【前回まで】「慶應以外の学校を見学したい」、息子の真翔にそう言われ、慶應に入れることが使命だと思ってきた玲子は、子どもに選択権があることに初めて気が付き、大きく戸惑う。そのモヤモヤした気持ちを癒すため、美典をオープンテラスビールへと誘いだすが、ビールが進む中、娘の脱毛症を自分がストレスをかけたせいではないかと思い悩む美典と共に、中受は“親の未熟さ”が炙り出されることを実感するのだった……。

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親族からの難関校の期待、子の円形脱毛症…親の未熟さがあぶり出される夏【中学受験小説連載】

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【第十九話】 小6・8月

最寄り駅から実家まで十分ほどの道を歩いただけで、スウェットのノースリーブワンピースが背中に貼り付くほど汗だくになった。日傘もハンディーファンも役に立たないとは言わないものの、この災害級の猛暑の中だと焼け石に水と言いたくなる。

「ケチらないでタクシーに乗ればよかった」

キンキンに冷えた麦茶を一気に飲み干し、美典は一息ついた。庭にでもいるのか、蟬の鳴き声がうるさいくらいで、クーラーの効いた部屋でも暑苦しさを覚える。

「駅から電話くれたら、お母さんが車で迎えに行ったのに」

麦茶を注ぎ足しながら、母、早苗は呆れたように娘を見る。

「その手もあったか」
「最近の暑さは尋常じゃないね。あんた、沙優ちゃんにも外で遊ばないように言いなさいよ」
「わざわざ言わなくても、いまの子は炎天下で外遊びなんてしたがらないわ。涼しいところでゲームしたり動画を観たり。それに沙優は、毎日夏期講習で忙しくて、遊びどころじゃないの」

それゆえに美典も遊びの予定をあまり入れられないし、母の体調も気になるので実家を訪れた。ついでに夏樹に受験の悩みや愚痴を聞いてもらいたいという気持ちもあった。

「沙優ちゃん、いいところの中学校を目指しているんだって」
「まあね。頑張ってるよ」
「いまは子供も忙しいわね。あんたたちが小学生の頃は、夏休みっていったら市営プールに行ったものだけど」
「ああ、よく行ったよね。お昼には木陰のベンチでカップラーメンを食べたでしょう、あれが、すごく美味しかったんだ」

塩素の匂いがするプールサイドで食べたカップラーメンの味は、格別だった。思い返してみると、自分は子供らしい子供時代を過ごしていたのかもしれない。沙優が子供らしい子供時代を過ごせていないと思いたくはないが、あの子にも、いまよりも暑くない夏のプールで、あのカップラーメンの味を食べさせてあげたいような気もする。

「ところでお母さん、体調どうなの? 目眩は?」
「付き合い方がわかってきたわ。この年になれば、しょうがないね」
「何でも年のせいにしないで、病院に行ってよ」
「はいはい」
「健診も受けてる?」
「もちろん。お父さんみたいにいきなりパタンッて倒れたくないですからね。何の前触れもなく突然逝かれたら、残された者がどれほど大変なのか、お母さんが痛いほどわかっているもの」

美典は高校三年で、夏樹は中学三年だった。新学期がはじまって数週間が過ぎたころだった。いつものように帰宅すると、食卓に母の字でメモが残されていた。父が職場で倒れて救急車で運ばれたので、夏樹と一緒に来なさいという内容で、都内にある病院名が書かれていた。

それから二日後に、父は帰らぬ人となった。

各種の手続きなど、ずいぶんと母を悩ませていた。事務的なことが苦手な人だから、青天の霹靂に心身をすり減らしたことだろう。いまの美典なら手伝ってあげられたが、当時は美典も大学受験生で、それどころではなかった。

「お母さんはゆっくり年をとって、人生楽しんでよ。美味しいものを食べに出かけたりして」
「こう見えて、けっこう遊んでいるんだよ」
「だったらいいけど」

早苗はこの秋に六十九になる。玲子の義母、喜代子はそれより四歳上だが、早苗よりも若々しい。月に一回は美容院を欠かさないし、全身のメンテナンスに手抜かりがないからだ。いっぽう早苗は薄くなった頭頂もそのままに、出かける時以外は化粧もしない。こざっぱりとしたところが母のいいところなのだが、もう少し自分自身を楽しめばいいのにと美典は思う。

「姉ちゃん、お待たせ」

二階から夏樹が下りてきた。美典がこの家に住んでいる時から着ていたであろうジミ・ヘンドリックスのTシャツを着ている。弟のこういう無頓着なところは嫌いじゃない。

「オンラインミーティングは終わったの?」
「うん、終わった。どうする、二階の俺の部屋で話す?」
「ここで話したらいいじゃないの。夏樹の部屋はごちゃごちゃして落ち着かないでしょうよ。お母さん、買い物に行ってくるし」

冷蔵庫の側面のフックに吊るしている車のキーを手に取ると、母は足早に出ていった。

「沙優の成績、伸びてるんだろう」

夏樹が美典の向かいに座る。

「頑張ってるんだけど、なかなか安定しないものね、成績って」
「自由が丘国際の合格判定が50%だったんだっけ? この時期にそれは上出来なんじゃないの」
「六年生最初の合格判定の結果ね、あれは本当に上出来だった。でも七月のレビューテストは良くなくて、クラスも落ちる寸前だったのよ」
「知識も解き方も定着していないんだろう。秋まではみんなそんなもんだ」
「そうなの?」
「子供って直前の伸びが半端ないって脳科学的に証明されているらしいから、その時にフルスロットルで行けるように持っていくんだよ」
「簡単に言うね。こんなに子供の受験の管理やコントロールが大変だなんて知らなかったわ。世の親たちって何食わぬ顔でものすごいことをやっているんだね」
「大変だろうな、人の親になるって」

Tシャツの襟をパタパタさせながら笑う夏樹の言葉は、完全に他人事だ。

「ねえ、受験のスケジュールなんだけど」
「もう決めてんの?」
「まだ、全然。二月一日からのスケジュール、それに埼玉と千葉の学校までチェックしなくちゃいけないんだよね」

母ではないけれど、そのことを考えると目眩がしてくる。

「いまって午前に受けた後に午後も受けるんだろ? 午後校として優秀層を取り入れて伸びている学校が増えているんだってな」
「らしいんだよね。午前受けて間に合うものなのかな?」
「間に合うところを受けるんだよ」
「あっ、そうか」

バカなことを訊いたようで、美典は苦笑する。三年生の二月からはじめた中学受験なのに、いまだにいろんなことがわかっていない。というよりも、本番が近づいてきて、はじめてわかることが多い。

「移動距離が長かったり、あまりに時間がギリギリだったりすると子供の体力が奪われるから、そういう場所は午後校の候補から外すしかないんじゃないの」
「メンタル的にも良くないよね。沙優はしっかりしているほうだけど、あれで案外、焦るとパニックになるからな」
「そうそう、急にお腹が痛くなって受けられなかった生徒がいたよ」
「あるんだよね、そういうこと……ああ、いまから不安になってきた」

それにしても、身内に塾の講師経験者がいてくれたことがありがたい。弟を労いたい気持ちになって、美典は冷蔵庫から発泡酒を二本取り出す。

「いいよね、休日だし」

簡単な乾杯をして同時に飲むと、二人して心地良く息を吐いた。

「ところで、洸平さんはどうなの? 一緒になって考えてくれてんの?」
「あの人も中受しているから、前向きに応援してくれてはいるけど」
「けど?」
「だからと言って自分から受験のことを調べたりはしないよね。もちろん塾の保護者会に出たこともない」
「ふうん。姉ちゃんが一人で何でもやりすぎるんじゃないか? 洸平さんを巻き込んだほうがいいんだよ」

そのとおりだと思いながら、美典はビールをあおった。

「わかっているけど、ただでさえバタバタなのに、夫にスケジュールを聞いたり、逐一情報をシェアしたり……面倒で」
「まあな、一人でやったほうが楽って、仕事も同じだからな」
「いいのよ、あの人はあれで。うちは経済的にものすごく余裕があるほうじゃないけど、洸平が沙優の塾代のことで嫌な顔を見せたこともないし、気持ちよく出してくれるから、それだけで感謝」
「それもそうだな」
「期待値が高いのも困りものだしね。話したっけ? 同じ小学校の同級生に尾藤エレナさんと淡田哲次さんの息子さんがいて、わたし、エレナさんと仲良くさせてもらっているの」
「そうなんだ?」
「その息子くん……類くんって言うんだけど、すごく優秀なんだよ。そのぶん、淡田さんの期待値も高いみたいで、それはそれで大変そう」
「淡田哲次って、高知だか愛媛だったか、トップ校から塾なしで東大に入ったんだっけ」
「よく知ってるね」
「いろんなところで喋ってるじゃん。よっぽど自信あるんだろうな、自分に。ああいう男って無自覚にモラハラしてそうだよな」
「夏樹、あんたってけっこう鋭いね。 エレナさん、そういうようなことを愚痴ってた。淡田さんっていかにもイケダンって感じだと思ってたからびっくり」
「姉ちゃんの人を見る目がないんじゃないの?」
「失礼ね、そんなことないわよ」
「じゃあ、他人の言葉の裏を読もうとしない、その単純な性格だな」

そう言われると、美典は否定できないので聞き流す。

「あとさ、近くのクリニックをしているご夫婦とも仲良しなんだけど、パパが慶應の医学部出身なの。将来は医者になってほしいっていう義理のご両親の圧が強いみたい」
「姉ちゃんが住んでいるような高級住宅街って、子供への期待値がむやみに高い家が多いってことだ」
「その点、うちなんて平和なもんよ。義理の両親は干渉してこないし、洸平だって、リビングにホワイトボードやコピー機を置いたらちょっと嫌な顔を見せたけど、パルム一本食べているうちに機嫌が直っちゃうくらいだから」
「出た、三種の神器。どうせ、ネットの掲示板をチェックしてるんだろう」
「中受の掲示板ってすごいよね?」
「塾講時代にたまに見ていたんだけど、妬みと誹りのオンパレード。ああいうところに出入りしないほうがいいよ」
「かもしれないけど、情報がほしいじゃない」
「情報って……玉石混交もいいところ。それに親が子供のことに詳しくなるならともかく、受験のことに詳しくなりすぎるのもよくないような気がするけどな。視野が狭くなって、子供を苦しめることになりかねない。そういう保護者を腐るほど見てきたよ」

なんだか自分が責められているようで、美典は口を尖らせる。

「費やしてきた時間とお金を考えたら、失敗したくないって思うものよ」
「わかるけど、子供って親が思っている以上に、親のことを見ていると思ったほうがいいぞ。親の顔色を窺うっていうのともちょっと違うんだけど、とにかく親に喜んでほしいって、本能的に感じているようなところがあるんだよ。でも、親はそのことにあんまり気づいていない」

少し熱を帯びたように夏樹は言った。

「わたしも気づいていないってこと?」
「知らないけどさ。大人が想像するよりずっと、十二歳の子が親を想う気持ちっていたいけないものなんだって、俺は感じたもんだよ」
「そうなんだ」
「それに失敗したくないって言うけど、中学受験してどこもダメだったんなら、公立に進んで高校受験すればいいだけのこと。それを失敗という烙印を押すのは親だからな」
「厳しいなー」
「厳しいよ、元・塾の講師という立場になれば」
「何もかも親が悪いってことね」
「そういうわけじゃないけど、実際にいたんだよ、第一志望に落ちたけど、受かった学校もあったのに、『こんな学校しか受からなかった』って子供の前で言っちゃう親とか。信じられる?」

ああ、思い出したら腹立ってきた、と夏樹は顔を顰めた。

「信じたくないけど……いるような気がするね」
「その親からすれば、こんな学校でも、誰かの第一志望だったりするわけ。デリカシーなさすぎ。何よりも子どもが頑張ってもらってきた合格だろ? それを言うに事欠いて、そんなふうにしか言えない親がいることに、俺は憤ったね。一度や二度じゃない。そういう現場を見てきたから、ずっと中学受験する子供のことが気になって、いまだに情報を拾って読んじゃうんだよ」

いつになく熱く語る夏樹の言葉が、美典の胸にも鋭く突き刺さる。疼くような痛みをかすかに感じながら、それを隠したくてかろうじて笑顔を作った。

「わたしは……大丈夫だよ。そんなことしないもん」
「ほんとか?」
「そういう親って子供をトロフィーみたいに思っているってことでしょう。そんなこと思ってないから」

美典の頭に、玲子の顔が浮かんでいた。真翔をトロフィーのように言った時の玲子の横顔が。

ビールの酔いに任せて言っただけなのか、どこまで本心なのかはわからない。ただ美典の中に、その言葉の違和感がずっと残っていた。

談議が白熱して、あっという間に発泡酒が空になった。早苗はどこまで買い物に行ったのか、帰って来ない。こんなふうに弟と二人でいると、いつかの夏休みを思い出す。

スタイリッシュとは真逆にあるこの実家の台所で、母が作ってくれたおにぎりなんかを食べながら二人でどうでもいいような話をしたものだった。思えば、あまり喧嘩もしてこなかった。

「わたしね、沙優の受験をはじめてみて、自覚するようになったんだ。学歴コンプレックスっていうのとも少し違うんだけど、弔えていない感情があるみたいなんだよね」

美典がそう言うのを聞いて、弔えていない? と夏樹は首を傾げた。

「夏樹が大学に通いはじめて、まもない頃だったかな。お母さんに言われたことがあったんだよね。あんたの教育費をケチれてよかったって。私大に行きたいと言われなくてよかったって」
「えっ? お母さんにそんなこと言われたの? 酷くないか?」
「お父さんが亡くなって、保険金も十分とは言い難いものだったからお金の不安があったんだと思う」
「それにしても、そんなこと言うなんて」
「だよね。やっぱ、そう思うよね?」
「思うよ」
「でも、お母さんは自覚していないの、自分がいかに残酷なことを言ったか」

その時の母の顔を、はっきりと思い出すことができる。いまだから言うんだけど、と軽い口調で、少し笑いながら言った。母の悪気のなさがよけいに美典の胸をえぐった。

「俺だって現役で落ちていたら浪人させてもらえなかったと思う。進学は諦めることになったんだろうな」
「あんたは浪人させてもらえたよ。お父さんが亡くなった二年後に、お母さんの方のおばあちゃんが亡くなったでしょう。一人娘のお母さんが遺産を相続して、まとまったお金をもらったの。だから、夏樹を浪人させることはできた」
「ふうん。全然知らなかった。お母さんって、そんな話を姉ちゃんにするんだ? 俺、まったく聞いたことがないんだけど」
「夏樹には心配をさせたくないんだよ」
「頼りにされていないようで、地味に傷つくけどな」
「女同士だから話しやすいっていうのもあるんでしょう。聞きたくないことも言われるんだから、地味に傷つくくらいで済んでいる夏樹が羨ましいわ」
「そっか」
「でもね、お母さんを恨んでいるわけじゃないんだ。あの人も苦労が多いじゃない。おばあちゃんの介護もあったし」
「お父さんは急死だしな」
「娘を大学進学させるための教育費を、真っ先にケチりたくなっても無理はない。生きていかなきゃならないんだもの。だから、許すとか許さないって話じゃないんだよ。ただ、わたしはそのことを一生忘れられないっていうだけ。そして沙優の進学だけは、どんなことがあってもケチりたくないっていうこと」
「沙優の中学受験で、姉ちゃんの気持ちも弔えるといいな」
「だね、ほんとに」

夏樹が冷蔵庫から発泡酒を取り出して、二人で二本目を飲みはじめる。

ああ、昼間に飲むアルコールは回るのが早い。このまま寝てしまいたいけれど、日が翳る前には帰らないといけないし、夕飯を作らなくてはならない。そんなことを考えながら、美典は気だるく頰杖をつく。

いろいろ面倒で大変だけど、全部うまく行くといいな。

さっきまでうるさかった蟬の声がいつのまにか止んでいた。

(第二十話をお楽しみに!)

イラスト/緒方 環 ※情報は2025年9月号掲載時のものです。

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