離婚、シングルファーザー、そして元妻の看取り… 宮川一朗太さん(59)パートナーから与えられた使命とは

STORY8月号では、パートナーを亡くした女性たちの与えられた『使命』について特集しましたが、今回お話を伺う宮川一朗太さんも、2年前に別れた元・奥様を亡くされたばかり。子どもたちの願いから、周囲に離婚を知られぬようシングルファーザーとして奮闘し、そして元・奥様を自宅で看取るまで…大変な使命を果たされました。そして今、宮川さんが何を思うのか?お話を伺いました。

 

宮川一朗太さんprofile

東京都出身。16歳の時に『家族ゲーム』のオーディションに合格し主演デビュー。日本アカデミー賞優秀新人賞を受賞。以後、NHK大河ドラマをはじめ多くの人気ドラマ、映画を中心に活躍中。また、声優としても名を馳せる。趣味は競馬、ゴルフ、茶道、クイズ。イクメンとしても有名で、娘2人をシングルファーザーとして育て上げ、PTA会長を3年間務めた経験もある。

自分にはないものに魅力を感じて

元妻と出会ったのは22歳のとき。特に業界で関係のある人ではなかったのですが、現場で黙々と働いている姿に好感をもち、話しかけたらするっと懐の中に入る表裏のない性格も好ましかった。綺麗でしたね。綺麗だけれども自由で、魅力的な女性でした。付き合ってから2年経たずに長女を授かり結婚しました。お互い23歳。若さのゆえなのか、結婚する前から彼女とは衝突が絶えなくて…。同級生って結構ケンカしませんか?お互い引けない、ぶつかった時に折れないんですよ、どちらも。それで喧嘩がエスカレートする。でも衝突する反面、息が合うところもすごくあったんですよね。

その後、次女も生まれましたが、彼女との関係は相変わらずで。育児を通して少しずつ、”あれ、なんか違うな、合わないな”という面が出てきて、ケンカも増えていったある日、ものすごい言い合いの後、「出ていけ!」と言ってしまったら本当に出ていってしまったんです。結婚して11年目くらいでしたね。しばらく帰ってこなくて、2年間くらい、長女11歳・次女9歳を僕1人で世話しました。彼女から時々連絡は入ってきましたし、子どもとは陰で連絡を取り合っていたみたいですけれどお互い引くに引けずにいたんですね。彼女が戻ってきてやり直せるかとも思ったのですが、最終的には毎日ケンカが絶えなくなってしまい、私たちの間に入って仲裁しようとする長女や、「もうやめて」と訴えてくる次女の姿に心が痛んで、「もうこれは別れればケンカはなくなるし、絶対今よりもよくなるから」と半ば強引に子どもを説得して離婚に至りました。そこからは僕は子どものための人生にしようと思ったんです。とにかく、離婚をしたことで子どもたちを不幸にしたくなかったんですね。

犯人役でも無理なのに…もうネタにされたくない!

「友達には絶対知られたくないから離婚は公表しないで」と娘たちに懇願されました。その頃の僕の仕事といったら、2時間ドラマの犯人とか殺される役とか、やるかやられるかみたいな役が多くて、「お前の父ちゃん昨日死んでたよな」とか言われていたようなんです。「パパ、もう犯人やめて」、「昨日も死んじゃったじゃん、パパ」娘たちから再三言われていましたね。何かしらクラスでネタにされることが多い中で、離婚なんてもってのほか、これ以上は勘弁してほしいと。中学生って友達との関係も敏感な年頃ですからね、ただでさえ離婚したことで傷ついているのに、その傷口に塩を塗るようなことはしたくなかった。でも、いずれは話す時期も来るだろうと、下の子が成人するまでは黙っておくと約束しました。それからは大変でした。母親がいるのを装うのに必死!(笑) バレちゃいけないので、近所の人に「奥さん最近見かけないですね」なんて言われても「実家に…」とごまかしたりね。ずっと演技してなきゃいけない毎日でしたね…仕事でも外でも、家の中に入るまではずっと。多分知っている人もいたかもしれないし、いずれはわかっちゃうことなんですけれど、周りの皆さん温かく見守ってくれていて本当に優しかったですね。最近いろんな場面でこの話をすることが増えていますが、こんなに反響があるなんて…正直びっくりです。

元・妻を自宅で看取ることになるとは考えもしなかった

元・妻は、離婚してからは南の島に住んでいて、娘たちは向こうに行ったり、一緒に誕生日を祝ったり、ちょこちょこ会っていたようです。彼女が7年ほど前に乳がんを患い都内で手術を受けたこと、抗がん剤治療は受けない決断をしたと、そういう話は聞いていました。その後、再発、がんは骨にまで転移していると…。僕も言葉にならなかった。それからまた2年が経ち、彼女の誕生日を祝うために会った時には本当に元気がなくて、「もうあまり食欲ないから車で休んでいる」と、そのくらいにまで病状が悪化していました。それが秋くらいだったか、その年末には脳にまで転移していて入院を余儀なくされました。けれども「病院は嫌だ、嫌だ」って無意識のうちにつぶやいている母親をみて、娘たちは同情して退院させてあげたいというんですね。彼女の家は南の方ですし、かかりつけの病院に近いといったら我が家しかない。最初僕は緩和ケアの設備も揃っていないし無理だと固辞したのですが、長女が「私が面倒見るから」と。その頃次女は妊娠中で、「お母さんに孫の顔見せられたら」とも言っていたので、そんな奇跡も起こるかもしれないか…とも。彼女をなんとか自宅に向かい入れたのも束の間、その翌日に静かに息を引き取りました。

僕のアルバムに強烈なページを遺していった

不思議ですよね。自宅に着いた時には起き上がっていたし、訪問介護の人にお礼まで言って…まあ、僕には無言でしたけれども、そんな人が翌日に亡くなるなんて。彼女と別れて20年、大変だったという思いはあるけれど、今はそれもいい思い出です。僕の心の中のアルバムの、僕の人生のそのページに確実に彼女はいたし、子どもたちとの楽しい思い出もある。あまりにもそれが強烈すぎるから、昔の思い出って普通は色褪せたりするけれど、鮮明な映像として全てがクリアに残っているんです。なんだかんだ言って、ぶつかり合う相手っていうのはお互いに大切な人なんだろうな。自分の本心なんて、ごく限られた相手にしか出せないですから。当時は自分が正しいと信じてやってきましたが、長い年月が経つとやはり僕は僕で悪いところがあり、もっと彼女と対話をするべきで、そこをおざなりにした部分は申し訳なかったし、一緒にいれば少なくとも病気がここまで悪化することもなかったのかな…と思うこともあります。まあ、彼女を弔う日が僕の誕生日ということには、また一つ、強烈な思い出を遺していったな…と思いますけれどね。

父としての使命

僕の父は58歳で亡くなり、元・妻もほぼ同じ歳で帰らぬ人となりました。この間父の日に娘から「長生きしてよね」とLINEをもらって、その軽く書いてある中に娘の想いが詰まっているのも分かりました。元・妻の闘病している姿を見て、先に旅立っていく人間の責務として、世話をしてくれるとか看取る人たちに後悔させてはいけないなと改めて思いましたし、まずは健康でいることが大切だと思いました。父や元・妻が見られなかった、その先を見ること、そして娘たちの幸せな姿を見届けることが、今思う僕の使命ですね。

衣装協力:ジャケット¥295,900、Tシャツ¥42,900、パンツ¥75,900、スニーカー¥130.900(すべて イレブンティ/三喜商事)

撮影/堺優史 ヘアメーク/後藤満紀子 スタイリスト/森本美砂子 取材/竹永久美子

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