乳がん発覚後に訪れた運命の出会い。結婚から奇跡の出産まで
夢だったテレビ局記者の仕事をしていた24歳のとき、ステージⅢの乳がんが発覚、一度は生きることを諦めたという鈴木美穂さんは今、がん患者を応援する活動を精力的に続けています。未来への希望を抱く彼女を支えた家族を取材しました。結婚、そして昨年母になった鈴木さんの後日談も……。
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※VERY2018年3月号に掲載された記事を再編集、一部加筆したものです。
Profile
鈴木美穂(すずきみほ)さん
慶應義塾大学卒業。元日本テレビ記者。24歳で発覚した乳がんの経験から、がん患者を応援する活動を開始。2016年東京都江東区に「マギーズ東京」をオープン、同認定NPO法人の共同代表理事を務める(http://maggiestokyo.org)。現在一児の母。
取材後の2022年に生まれた娘と一緒に。
ステージⅢの乳がんが発覚。右胸を全摘することに
10年前、24歳で乳がんステージⅢの告知を受け、生きることを絶望していたあの頃の私に、今何か伝えられるとしたら、「大丈夫、未来はすごく幸せだよ。変わらず本気で、濃い人生を生きているよ」というコトバ。昨年10月に入籍し、今年は挙式予定。乳がんが完治したと言える〝告知から10年目〞の5月も、目前です。
日本テレビ勤務時代、記者と兼務で『スッキリ』と『情報ライブ ミヤネ屋』のキャスターを務めていた頃。
幼い頃から活発で、小学校では学級委員を務めたり、イベントを企画したりすることが好きだった私。テレビの報道記者を目指すようになったのは、小学校の先生の一言がきっかけでした。「鈴木さんはテレビでニュースを伝える仕事が向いていると思う」。以来、テレビに映る女性記者の姿に強烈に憧れました。記者、アナウンサー、キャスター……。当時の私にその違いはわかりませんでしたが、「ニュースを伝える人」という夢に向けてまっしぐら。父の赴任先のアメリカで、英語生活につまずいた時も、「夢のために必要な試練」と歯を食いしばり、大学在学中はバックパッカーで30カ国以上を旅したことも。そして世界中で起こっていることを〝取材して〞多くの人に伝えたい、という思いが明確となり、念願かなって日本テレビで記者職に就くことができました。
乳がんが発覚したのは、入社3年目、24歳の時でした。右胸にしこりのようなものを感じ、受診。生理によるハリの可能性もあるけれど、念のためにと受けた精密検査で、「悪いものが写っている。がんの可能性が高い」と告げられました。年齢的にも乳がんなんて予想すらしていなかった私にとっては、あまりに突然のできごと。
「がんになっちゃった……」と泣き崩れた私のもとへ、母が駆けつけてくれました。その後は一刻も早い手術が必要と言われましたが全摘出を避けたいという思いと、最適な治療法を求めてセカンドオピニオンをもらいに複数の病院に行きました。
乳がん治療後に「母になる」そんな例を教えてくれた主治医
そこで感じたのは病院によって治療法は様々、情報にも差があるということ。私の乳がんは「HER2陽性」というタイプで、細胞の増殖がとても速いのが特徴。このタイプの乳がんに効果のある分子標的薬は、私のがんが発覚する2カ月前に標準治療薬として承認され、保険適用されていたのですが、有名な病院でもそれを提案してくれるところと、そうではないところがありました。
そうして病院を何軒も回る中、赤ちゃんを抱く笑顔のお母さんたちの写真をたくさん貼ったパネルを見せてくれた先生がいました。「みんな、かつての僕の患者さん。鈴木さんだってこうなるんだから」。そう言って、将来の出産のことまで視野に入れた治療計画を提案してくださった吉本先生が主治医となり、告知から19日後、右胸の全摘手術を受けました。
いつも寄り添い、支えてくれた家族
手術の結果、リンパにも転移のあるステージⅢとわかりました。再発リスクが高いがん細胞だったため、術後は抗がん剤、放射線治療、分子標的薬、ホルモン療法のフルコース。抗がん剤投与後は、副作用でだるさと吐き気に襲われ、朦朧として起き上がることができません。
そして髪が毎日少しずつ抜け落ちていき、最後には全てなくなりました。病室の窓から休職中の会社を見つめ、もう大好きな仕事には戻れない、結婚、出産もできず死ぬんだと毎日泣いていました。こんなに辛いならいっそ死んだ方が……、と感情が抑えられず、つきっきりで看病してくれる家族にぶつけてしまうこともありました。
私のがんが発覚してから、父は赴任先の海外から急遽帰国。母も妹も仕事を辞め、ずっとそばにいてくれました。実は病院から、必ず家族の付き添いが必要と言われるほど、当時の私は不安定でした。いつも頼もしく私を受け止めてくれたのは、昔は甘えん坊で私にベッタリだった2歳年下の妹。「死」の恐怖に怯える私に「どんな時も一緒だよ」といつも寄り添い、笑顔で支えてくれた母。後で聞いた話ですが、医師からは2年後に生きているのは難しいかもしれない、と言われていたそうです。そんな辛い状況でも、2人は笑顔で励ましてくれました。
「何があっても美穂なら絶対大丈夫」。学生時代のバックパッカーや自転車で日本一周……、親ならハラハラするに違いない青春を謳歌する私に、いつも父がかけてくれたコトバも改めてこの闘病の支えとなりました。いつからか次第に死ぬことよりも生きることを考えられるようになり、「もし生きられたらこの経験を活かし人の役に立つことをしますので、どうか生かしてください」と毎日願っていました。
「なぜ私ががんに?」仕事復帰後も問い続けたこと
そして8カ月の休職を経て、無事に仕事復帰。今まで通り、記者の仕事に戻れたことに心から喜びを感じながらも「なぜ私が?」と自分が乳がんになったことの意味を問い続けていました。私自身、がんになり、どう生きていけばいいかという情報にたどりつけなくてすごく不安でした。だから、この経験にもし意味があるのなら、私と同じような不安を今抱える人たちが、生きやすい社会を作るために情報発信をしていくことなのではないか?と思ったのです。
そこで「STAND UP!!」という団体を設立。若くしてがんになった人を応援するためのフリーペーパーを作りました。その後、「Cue!」という、がん患者向けのヨガなどのワークショップを行う活動も広げたことで、がん患者のための場所が必要という思いが芽生えました。
闘病中、ずっと支えてくれた家族には感謝しかありません。抗がん剤で髪も全て抜けてしまいました。
闘病中の思いが形に“マギーズ”との出会い
思い立ったら猛進する私。そういう場所を作ろう!と、両親も巻き込んで計画を立て、いよいよ中古の家を購入する寸前だった2014年、がん患者などの支援に関する国際会議に参加し、英国にある「マギーズセンター」の存在を知りました。
がんに直面し悩む患者本人、家族、友人らがゆっくりくつろぎ、看護師や心理士など医療の専門家にも相談できる施設です。闘病中、どんなに家族に支えられても孤独を感じることがありました。家族は家族で、吐き出せない思いや、悩みを抱えていたと思います。
それぞれの立場で居場所や相談相手が必要だったと思っていた、その場所がまさにマギーズ!「求めていたのは、これだ!」と体に電撃が走ったようでした。家の購入はすぐに白紙に。すでに日本にマギーズを作りたいと発信していた、看護師の秋山正子さんを訪ねました。
がんになった人と家族や友人などが、気軽に訪れてくつろぎ、専門家のサポートもある場がマギーズ東京です。
がんになったら「人生が終わり」ではない時代に
「マギーズ東京」の実現の壁になるのは、なんといっても資金不足でした。「病気を抱える人の不安を軽減できるような空間」となるため、英国のマギーズは広大な土地と庭、建物は名だたる建築家が設計した、とても美しい場所なんです。それに及ばなくとも、雰囲気は踏襲できる場所と資金は不可欠。それならメディアやアートに強みを持つ私たちのチームが、医療界で信頼のある秋山さんのチームと一緒になれば必ずクリアできる。一緒に活動したい。そんな私の急な申し出を、秋山さんは受けてくださいました。
クラウドファンディングや、チャリティの活動を共に行い、様々な方の協力を得て、約2年半後の2016年10月、豊洲の地に「マギーズ東京」がオープンしました。それから1年、マギーズに訪れてくださった方は7、000人を超えました。
がんの治療は日々進歩して、選択肢も広がっています。今やがんになっても、再発転移をしても、人生は終わりではありません。でも誰もががんになる可能性があり、それは決して低い確率ではない。もしがんだとわかった時に「そういえばマギーズってあったな」と思ってもらえたり、自分の闘病中の時と同じように戸惑い、苦しんでいる人たちのために真っ暗闇に立つ灯台のような存在になりたいと思っています。
私を娘のように思ってくれる義母と家族になれたことが嬉しいです。
もしかして再発!? から新しい家族との出会い
夫との出会いは、マギーズ立ち上げのさなかに参加した、友人主催の勉強会でした。彼も本業をしながら社外で活動をしており、仕事に没頭する性格も一緒。すぐに意気投合しました。記事を読んで私の病気のことも知っていたので、最初から隠さず自然体。がんになって以来、恋愛もうまくできなくなっていた私が、ありのままで接することができる相手でした。
夫のコトバ……
「生きてさえいてくれればいい」
そして付き合い始めて3カ月ほど経ったころ、また左胸にしこりを感じたことがありました。今度こそ再発か……と思うと怖くてたまらず、検査をためらっていた私に彼がかけてくれたのが「たとえ再発しても、俺がいるから大丈夫。一緒に乗り越えよう。どんなことがあっても、美穂はただ生きてさえいてくれればいいのだから」というコトバ。闘病中に私が感じていた「生きてさえいられれば、それだけで幸せ」という気持ちに重なり、不安をスーッと取り除いてくれる温かいコトバでした。
私のやりたいことは反対せず見守り続けてくれる両親。母はマギーズ東京でボランティアをしてくれています。
実父のコトバ……
「美穂なら絶対大丈夫」
実母のコトバ……
「どんな時も一緒だよ」
時が経つにつれ、生きていることが当たり前となり、欲望や願望が上乗せされ、人を羨ましく思ったり、自分を追い込んでしまったりして、いつの間にか「幸せ」のハードルをあげてしまうこともあります。今では小さな喧嘩も、もちろんあります。そんな時、私たちが立ち返るのがこの「生きてさえいれば」という気持ち。後々彼から、結婚を決意したのは、そういう気持ちを初めて女性に抱いたと気づいたから、と聞きました。
ところで再発かと疑われた検診には、彼が半休を取り付き添ってくれたのですが、結果は何事もなし。むしろ吉本先生に「いい彼ができたみたいだから、ホルモン治療は終了。出産を考えるのも遠くないかもしれないから!」と言われ、8年半に及ぶ治療が終了。事後で、家族に検診の結果を伝えると、病院嫌いの私を、家族以外で病院に連れて行けた相手ということに驚き、ひょっとして……と思ったそう。思い返せば、私の人生が新しく動き始めたひと騒動でした。
義母のコトバ……
「美穂さんがお嫁さんになってくれたら嬉しい」
ひょっとして……は、付き合いたての私に会った時から、義母も感じてくれていたそうです。私の全てを知っていながらも、「美穂さんがお嫁さんになってくれたら嬉しい」と言ってくださっていたことには感謝しかありません。とても温かく、でもシングルマザーで兄弟3人を育て上げたたくましさも持ち合わせている、女性としても尊敬できる義母と家族になれたことも心から幸せと感じています。
病気になってから、結婚ができなくても、子どもがいなくても、幸せだったと本気で思える人生を過ごしたいと願ってきました。私にとっての幸せは、突き詰めると、人に愛されたり必要とされること。そうありたくて、これまで本業もマギーズもがむしゃらにやってきたのだと思います。今はその先に新たな心強い家族ができて、さらにやりたいことは臆せずにチャレンジしていきたい。だって生きてさえいれば、たとえ失敗したとしてもいつだって挽回できるのだから。
「強い芯を持ちながら穏やかで愛情を注いでくれる夫がいるからがんばれます」
その後の鈴木さんは……
「子どもが生まれ、三人家族になりました」
この取材の後、「人生は一度きりだ」という夫のコトバに背中を押され、テレビ局を退社。長年の夢だった世界一周の旅にも出ました。ホルモン治療の影響で長く生理が止まっていたのですが、幸運にも妊娠。2022年に娘を出産しました。
2023年夏、家族で訪れたカナダで。
鈴木さんのHISTORY
1 家族全員仲が良い鈴木家。2 大学4年生の時、ママチャリで47都道府県を縦断して、出会った人のお宅に泊めてもらいました。泊めてくれた方に大切な言葉を書いてもらったノートは宝物です。3 主治医の吉本先生と。再発を恐れて行った検診の日の一枚です。4 いちばん最初の活動が「STAND UP!!」。情報誌の発行だけではなく、若いがん患者約600人のサークルになり様々なイベントを開催。5 設立のためのチャリティパーティを主催。多くの方に支えられマギーズはあります。6 入籍のお祝いにと同僚が作ってくれた寄せ書きとサプライズで夫からもらった婚約指輪。
撮影/吉澤健太 取材・文/立花あゆ 編集/磯野文子
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