『魔女の宅急便』角野栄子さんの子育て「母親は誰でも“魔法”を持っています」

『魔女の宅急便』など世代を超えて愛される作品を生み出してきた角野栄子さん。89歳になった現在も現役作家として活躍、近年はカラフルなファッションやインテリアが話題です。ご自身は専業主婦として育児に奮闘する傍ら、作家デビュー。「世界一オシャレな魔女」ともいえる角野さんの鎌倉のご自宅でお話を伺いました。

※記事は、VERY2017年11月号『母親は誰でも「魔法」を持っている!』を再編集したものです。角野栄子さんのイラストは描き下ろし。

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30代、育児のかたわら物語を書きはじめる

──はじめて本を書いたのは、育児中のことだったそうですね。

「私は31歳で娘を産みました。当時は若いうちに子どもを産むのが当たり前という雰囲気だったから、ちょっと遅いですよね。20代で結婚してからも海外を見てみたいとブラジルに夫婦で移民として行ったり、ふらふらしていましたから。特に出産を先延ばしにしていたわけではないですが30代に入り、もうそろそろ子どもを持ってもいいんじゃないかなとは思いました。私はそのころ専業主婦でしたが、育児中にたまたま大学時代の恩師からブラジル時代のことを書いてみないかと依頼があって、それが本を書くきっかけになったんです。それは34歳ごろのこと、娘は3歳のいたずら盛りで目が離せないので、首から紙をはさんだ画版を下げて追いかけながら原稿を書いていました」

──育児中に執筆されましたが、ご家族のサポートはありましたか?

「そのころは高度経済成長期で、どこの家の旦那さんも忙しく残業ばかり。フリーのデザイナーをしていた夫も多忙で今の時代のように夫婦で家事や育児を分担するようなことは想像もできませんでした。保育園も今よりずっと数が少なくて、よっぽどうまく条件が合わないと入れなかったんです。主婦の私はいつも子どもと家の中に2人きり。私は幼いころに実の母を亡くしています。なので、たまに美容院に行くだけでも知人に頼まねばならず気兼ねしてちょっと憂鬱でしたね。夫は帰宅が遅いので夜、娘が寝てしまうと孤独で退屈で、本を読むくらいしかできない。でも物語を書きはじめるとこれがすごく面白くて夢中になったんです。私はこれから一生書いていよう、と思いました」

──もともと作家志望だったわけではないのですね?

「子どものころから将来は作家になると決めていました、というような人もいますが私は違います。結婚後にやりたいことがあったわけでもなく、作家というのは特別な人がなるものだと思っていました。講演会で『作家になるには?』とか『印税生活を送りたい』なんて質問をよく受けるのですが、『有名になってお金儲けしたい』という目的が先にあるといい作品は書けないのではないかなと思います。私は最初の本を書いてから次に本格的な物語を発表するまで7年ほどかかりました。その間は書くことが純粋に楽しくて主婦業のかたわら毎日書いていました。本を出して世間に発表しようという気持ちじゃなかった。ただただ書くことが楽しかったから7年間も書き続けられたんだと思います」

 

角野栄子さん描き下ろしイラスト!  代表作『魔女の宅急便』は2025年、刊行40周年を迎えます

 

母親はきっと「魔法」が使えるはず

──娘さんのお名前は思い出の土地である「リオデジャネイロ」から名付けたと聞きました。

「今でいうキラキラネームのはしりですよね(笑)。娘が小さいころは喫茶店の名前みたいと嫌がられました。結婚後ブラジルに渡ったのは、当時何もない荒野だったブラジリアに建築家ニーマイヤーの設計で首都を造ろうという壮大な都市計画をこの目で見たかったから。当時は日本人の渡航が制限されていて、持ち出せる外貨もわずかだったので現地では夫婦で必死に働きながら過ごしました。その後、ボロの中古車を買ってほぼ無銭旅行のような旅で3カ月ほどヨーロッパ等をめぐって帰国したのでそれで度胸がついたのでしょう。娘が4歳の時に、そろそろ連れていけるかなと思い立ってヨーロッパをふたりで旅をしました」

──ご家族の反応はいかがでしたか?

「当時、海外旅行はまだ現在のように一般的でなかったのですが、海外に行くことも娘を連れていくことも夫は反対せず送り出してくれました。父も母も内心心配していたのでしょうが、止めてもこの子は行くのだろうなと思ったんでしょうね。黙って行かせてくれたんです。4歳の子どもを一人で連れて行くのはやはりそれなりに大変だったのですが娘は小さくて当時のことを何も覚えていないそう。でも子どもはやはり吸収が早くて、帰国後イタリア語で娘が話しだした時には、皆でのけぞりました」

──その後、魔女を訪ねて旅をされるなど世界各国をめぐっています。

「魔女の歴史を知り、今を生きる魔女たちを訪ねて歩いたのは『魔女に会った』(福音館書店)に書いた通り。『魔女の宅急便』を書いてから、この『魔女』とはいったいどんな存在なんだろうと興味を持ちました。昔、人々は今よりずっと厳しい自然の中で暮らしていたはず。その中で生まれてきた子どもを何とか守り育てたい。これは今も変わらない切実な願いです。自然の木々は冬に枯れ落ちても春また芽吹いて再生する力を持っている。その不思議な力をわが子に与えたら丈夫に育つかもしれないと草や芽を使って薬を作る。そんな母親たちの願いから魔女という存在が生まれてきたのではないかと私は思っています。。目に見えない世界を想像してそこにあるエネルギーを暮らしに取り入れることが『魔法』といわれるようになったのではないかしら。ヨーロッパでは魔女狩りなどの悲しい歴史もあったけれど、本来魔女は、見えない世界を想像して工夫をこらして暮らすことができる心豊かな人たちだったはずです」

受験勉強は意識しなかった

──お子さんの育児はその後いかがでしたか?

「私は子どもの教育には本当に疎くて塾に行かせた記憶もありません。他のお母さんたちが受験について騒いでいるのを見て『ああそんな時期か』と思うまで気が付かなかったんです。ただ、うちの娘は算数がどうにも理解できなかったようで、担任の先生が『リオちゃんは数字を絵だと思っているようです』と言ったんです。娘に話を聞いてみると、2×0はなぜゼロになるの?と。これは私もうまく説明ができませんでした。そんな時に独特な教育をするという学校の話を聞きました。それで小4の時に転校して、高校まで通いました。その学校で2×0=0が理解できたのです。『ぱっとわかった』と後で言っていました。いわゆる進学校ではないですが良い先生や友人に恵まれてこの時の選択は本当に良かったなと思っています。その後、絵の勉強がしたいという娘は文化学院に進学しました。ここは正規の大学ではありませんが、夫も大学時代にダブルスクールで通っていたんですって。国立大学にも通っていましたがそこよりもずっと面白かったそうなの。娘は50代になり、お話を書いたりイラストの仕事を続けています。私自身子どもの教育に大層なことは言えないけれど、いまでも子どもに合う学校に転校させたのは大正解だったと思いますね」

いまの30代の女性たちに伝えたいこと

──東京生まれ東京育ちの角野さん。なぜ鎌倉に引っ越ししたのですか?

「私は深川の生まれ。戦時中に集団疎開をしたり、移民としてブラジルに渡り東京を離れたことはありましたがそれ以外はずっと都内に暮らしていたのです。鎌倉の新居を選んだのは特別な理由はありませんが、暮らしてみると海がすぐそばにあって通り抜ける風が心地よくすっかり気に入りました。東京みたいに広くないのも歩いてまわるのにちょうどいい頃合いですね。スーパーはあるけれど元気な個人商店もまだまだ豊富で、八百屋さん、おいしいビストロ、散歩途中によく行くカフェなど行きつけがたくさんあります」

自宅リビング。自身のテーマカラーだといういちご色の壁の前で

 

──お洋服やインテリアも色鮮やかで素敵です。

「以前は黒やグレー等無難な色を選ぶことが多かったんです。明るい色を着こなす自信がなかった。でも赤が似合いますねと言われてから気持ちが変わって。40代のころ、赤の中でも自分にしっくりなじむいちご色を自分の定番色に選びました。普段の生活の中で『自分の定番の色』を決めておくと迷わなくて便利なんです。小さい時は娘も定番色を持っていました。オシャレは昔から大好きで育児に忙しいころも、サンダルの甲をはがして好きな布に張り替えたり工夫しながら楽しんでいました」

──いま育児の真っ最中の人に伝えたいことはありますか?

「動物も子どもが乳離れするまでは本能的に守らなきゃという意識になる。子どもを持つと人間が保守的になりますね。成長の早さや発達具合をやたらとよそのお子さんと比べてしまうこともよくあるでしょう。私自身もそうでした。当たり前のことですが出産前とは変化があって戸惑うこともあると思う。それはあってもいいし当たり前です。でも育児にかかる時間はそんなに長いものではないし何より子どもがいちばんかわいい時なので大切に過ごしてほしいと思います」

──育児中のエピソードも作品に生かされているのでしょうか?

「小さなおばけシリーズに出てくるおばけの『アッチコッチソッチ』の名前は『あっちいってね、そっちいってね。こっちにかえるさんのお家がありました。白いタイルのお風呂に入りました。そうしたら体が真っ白になりました』なんて娘が小さいころ、自分で作って話して聞かせてくれたお話が元になっています。夫がデザインの仕事に使う色見本を見て『世のなかにはこんなにたくさん色があるんだ』と思って作ったみたい。その時私は作家として駆け出しだったのですぐに作品になったわけではありませんが、いつか書こうと心の中にとどめておいたことが後々役に立っています。『魔女の宅急便』の主人公キキも娘が中学生の時に描いた魔女のイラストを見てひらめいたものです。私はどんな人もひとつ自分だけの『魔法』を持っていると思っています。キキはほうきで飛べるという力を生かして、見えない世界を見、想像し工夫を重ねながら親元を離れてひとりで生きていく力を養いました。魔法の源にあるのは『想像する力』なのだと言ってもいいかもしれない。それは魔女のキキだけではなく誰でも持っているもの。目に見えない世界に思いを馳せ、心を動かすとその人の魔法が育っていきます。ぜひ皆さんも自分だけの『魔法』を見つけられたら、生き生き暮らしていけると思うのです」

 

世界一オシャレな魔女は鎌倉在住!

左上:季節の花が咲く小さな庭。甘夏やブラッディオレンジの木を植えて自家製ジュースを作ります。左下:部屋には世界各地を旅して集めた魔女グッズのコレクションがたくさんあります。右:玄関。小さなチェストの上に乗る三角帽子の顔は広松木工オリジナルの子ども用の家具。中にはハンカチやスカーフをしまって。
左:金属アレルギーなのでジュエリーがつけられません。そのかわりにこんなカラフルなネックレスや指輪を日替わりで楽しんでいます。右上:本棚はリビング、ダイニング、仕事部屋などあわせて20本近く!右下:ものがない時代を経験したせいでなかなか捨てられない。今も現役のラジカセ。

「鎌倉に家を建てる時に、こだわったのは蔵書をしまえるようにたくさん本棚を作ることと壁を自分のテーマカラーのいちご色にしたこと。海外を旅して集めた魔女グッズやスノードームなど細々したお気に入りは専用の棚を作ってずらりと並べています。いま座っているイームズの椅子はブラジルから帰ってきた時買ったもの。背を張り直しましたが50年以上使っています」

PROFILE
角野栄子(かどのえいこ)さん

1935(昭和10)年、東京生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、出版社勤務。24歳の時からブラジルに2年刊滞在し、その体験をもとにしたノンフィクション『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』で作家デビュー。以降『ズボン船長さんの話』「小さなおばけ」シリーズ、『ラストラン』など数多くの絵本・児童文学作品がある。産経児童出版文化賞大賞、野間児童文学賞、IBBYオナーリスト文学賞など多数受賞。紫綬褒章、旭日小綬章を受賞。2018年、国際アンデルセン賞作家賞を日本人3人目として受賞。23年、東京都江戸川区に「魔法の文学館」(江戸川区角野栄子児童文学館)がオープン。25年には代表作『魔女の宅急便』が刊行40周年を迎える。

単行本『魔女の宅急便』が生まれた魔法のくらし 角野栄子の毎日 いろいろ(KADOKAWA)

取材・文/高田翔子 撮影/吉澤健太

※VERY2017年11月号『母親は誰でも「魔法」を持っている!』を改題の上、再編集

 

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